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お互いさま
・そうやってこの数日の”流れ”がすべて、「そこ」からこの具体的世界の方へ流れてきている、引き込まれてくる、と言えた。
・恐らく捉え場所が「そこ」という場所に自然となる(なっている)のだと思う。感覚を開くというのは、そういう事だと感じる。
・”向き”というのは大切で、色々あると思うけど、例えば主人と話していて、それを、それぞれが基本としているものだから、動きが正反対だったりする(時)、それはとてもやりづらい、どちらにとっても。同じレールにある事の前提で、例えば12345(→)と12345(←)の向きとが同時に進む。(12345と54321でも良い)矢印→を揃えて順序を変える・順序を揃えて向きを変える。表現はこうして自由。”3”の位置で一旦揃うかもしれない。
・直線的で表現している”軸”という棒。表現はこうでなくても良くて、それは柔らかな広がりのある”空間”というものでもいい。イメージが広がるまたは、捉えやすいものなら(どの様でもいい)、という事だと思う。
表現は真実も含むものの、それはとても少なく、中身は表現者の頭の中、その世界。それを自分の中にもインストールできるか、または「その世界」へ入って行けるかというもの。ここでも表現はあくまでも表現でしかない、”同じ”状態をどちらの面、場所から書いているかという現し方の違い
・私が”そこ”に感じた、それを見た、という事は、”同じ”という話―――。
・・・ ・・・ ・・・
とてもバラバラの走り書きメモをそのまま↑。
(表から読み取る)言葉にされているこのコト自体は、本当に意味を掴むためのものというより、その背後・背景側を感じ取る為に言葉を流されている様にさえ感じるほどのバラバラさ。
だけど一応、書いている時は、何かを”視て”、そこから一気にメモしている、手が止まるまで。そこから私自身が括れる共通のこと、比較的強めにとれるものは「向き・方向」の事だった。”位置”という風に書いても良いのかもしれない。
それは、現実世界での事象、この近辺(その前)では、主人との会話を通して”そう感じる事があった”事も大いに関係していて、現実の具体的事象からこの頭の中で何かを組み上げる、という様な動作をそこに観るような感じ。
表の様々な事象がなければ、コトの集まりは見えてこない。その”コト”は事象に現れているものではなく、その事象から汲み取れるものとして、この頭の中に現れてくるもの。
少し具体的なイメージを話しに変えると、私と主人の考え方(在り方)は正反対の事も多く、それは時に衝突を生む。そういう場面があっても今は冷静に考える頭が互いの内にあるので、衝突と言っても向きがぶつかるその衝撃を人が感じるいう程度(説明が分からん(笑))。
そしてその中で、この”組み上げ方”が異なるのだと感じていた。それを”優先順位の違い”とか、”同じ材料を使っても柄が違う旗”とかいう事ができる。「”カタチ”への作り方、進み方が二人は異なる」というもののイメージがあった。
手順が異なれば、中々揃わないわけで、それぞれのその構成していく途中を、一旦少し分解してみないと、ただガチャガチャとぶつかるだけだった。
どちらも引く必要もなく、譲った訳でもない、ただ分解しオープンにしただけ。そしてその互いの相違を言葉にしただけ。そんな展開を挟み、意思を揃えたでもなくまた静かに何か進んで行く…。
一旦”見える”状態になることで、”相手”が見えるようになりそれが自分の視界に入ってくる。そうすると、自分を変えるという事をするでもなく、自然と自分と相手というものが認識された状態によって、自分側に自然な”調整”が入るように感じる。
それは誰かに強制された訳じゃなく、外のそれを確認して自然と自分が関係性を変えているような柔軟さを互いの中に見たように思った。
自分と、自分以外の”何か”という存在の間において、自然と人は対応をしている柔らかさがあると思う。その例の”②”の部分、クッションになるような間の柔らかさによって、自分との違いを上手く繋いでいる様にも感じる。
その、どちらの部分とも言えないようなその部分がある事で、自分は残され、他者も残されている重なる場所が「あいだ」。
言葉にしてしまった表現からは、意味によるきれいな線引きがなされてしまうけど、実際の私たちの持つ意識というものは、そんなにきれいに分かれているものじゃない事は、少し考えると思い当たることは多々あると思う。
意識上では、わたしもあなたも入り混じっている。でも記憶上の認識では明らかにワタシとアナタは別のものでもある。ワタシが隣りの家へ”ただいま”と帰宅することがないのは、きちんと分けた認識があるから。だけど「わたしもそう思える」のは、私は自分の頭を使っていながらあなたに起きている事を、”ここ”で感じる事ができるから。区別されない空間がある。
様々を感じる事ができる、この頭の中で、分かれているものは分かれているものとしてしっかりと分けた思考を持った上で、「あいだ」を使っていく事がこれからもっと大切になるのかもしれないよね。
・・・
何かの”流れ”を強く感じる時、その背景に必然的に矢印(の向き)を感じている(私が)。
その向きのバラバラに揃わない時というのは、人にとってあまり心地の良い状態ではないと思う。全てではないにしても少し向きが揃うだけで消耗するエネルギーは大きく減る。
自分というものを通していくそこに力を使ってしまうより、外の状況を見た上で、その方向に柔軟性を持たせた方が、結果的に自分が通される状態になる、という事が多くある様に思う。
自分自身を動かすでも直接と間接とがある。だから他者を動かすでも同じ。もしも、その”向き”にして欲しいと他に願う状態があるならば、その向きへ向かう様な在り方が、”自分にあればいい”となる。
他者を動かす(変える)より自分を動かした方が容易、という言葉があるけども。これはもう少し奥へ行けて、↑上記した事を言うんじゃないかと私は思っている。
これで、目的は外れていないのだから。
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こうしてずっといるんだもの…可愛いしかないでしょ~(*^^*)
そして…
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舌チョロがにくい( *´艸`)
ワン達も勝手に「自分の中でルールを決めて」それを実行しています(*^^*)逆に、こちらで決めたルールに従い、このウチの枠に中にいる。
”お互いさま”です。
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