見出し画像

”詰める”のは自分

5/16メモ

言葉になっている(言葉にする)ということは、”短縮”されている分、無理が生じる。

感覚をすっ飛ばして「受け容れ(ろ)」と言われているような気になるから。

やっていること自体は「同じ」。

言葉にした事によって見る側(受取る側)に、「思考する状態」を与えてしまうから反発や拒否などを生む状態が作られてしまうという事。

「自己フィルターの外」という表現が、この通常の言葉部分を言い換えている訳で、また、「分からないまま呑み込む」も同じく、言葉で具体的にされた事と、同じコトを現わしている。

(言語という正面から入らずに、違う扉から入れていく、という事のたとえ)

5/16メモ

抽象ーー具体をぼちぼち考えていて、それがフックされているから考えに結びつくのだけど、何か他の事を考えている時に、その事の背後を流れていく具体⇔抽象のイメージ。

そしてまた思ったのは。

発信と受信が同じ層で捉えるとは全く限らないという事を改めて観ていた。だから結局、”すり合わせ”がなければ”一致”する事も実際には殆どなく、ただ高い地点で括ったそれに、”同じ”という解釈がついているだけ。


という事は、一致しない”バラバラ”である事が通常と見るのが”普通”となると分かるし、だけどこの世では目線も認知、認識も同じと揃えてしまっていることにも改めて目が行く。

そう分かっていても、惰性で行えば(気を抜けば)、すぐに同じ目線を前提に並列で物事を考えたりするのが私達で、気づくたび、「そうか…」と、”分かって”いく。


5/17メモ

字を読んでいて、字を”見て”いない。
脳内の画像を視ているから。

「字」に集中して読む、ことなんてあるだろうか?ソレを理解するという事は脳内に”入って”いるはず。

字はコニョコニョの線(点)でしかない。そこを埋めるのは何だ?誰かな?

まだ詰まる、詰められる。

無意識に使ってきた言葉、その動作。
それが抽象から具体への流れという事を”今”、という地点から観測している。

”言葉”というのは、最初かな?
私の感覚ではどちらかと言えば、”最後”と考える。

結局は同じ”場所”に位置するわけだけども、”自分”の地点が何処にあり、そこから観て「どこか」によって、始めか終わりかが変わるだけ。


そうして切れ間なく繋がっているのだから、(なんでも)良いのだけども、言葉という意味に囚われると、見誤ることが多い世の中だから…私のように。

いや、どこまでも、人が見た決めた範囲の話だから、ただの決め事に沿って色々を捉えるのだけども、余計な〇✖のような事が少なくなってそれ自体は良くてもまたそれでは、何も掴めなくて・・・。

傾斜がないと初動って難しいかもね。

・・・ ・・・ ・・・

「色々というものがある」ことを知ると、それには「順序が大切」という事が分かってくる。

”結果”というのは、知ればよいのではなく、例えば「何でもよい」というのは、そのプロセスがあって言っている事で、端から”何でもよい”訳ではない。それはただ、何も決めないという行い。

左へ~、右へ~と移動してみて、その結果両方を観る位置で観ると、「どちらでも良い」で結ばれてくるという結果になっていて、やはりここは”順序”という事が必然的に表れている。


実際には、そんな事をここでは現わされていない訳で、読み取る時点で”補填”されるもの。

音声noteでも触れた通り、その”埋め方”に個性があったり、逆にこちらが読む側の時には、私は知らない事が多いので、「なるほどなぁ…」と感じる事が非常に多い。

音声内容と合わせて強く伝えたいのは。

「受け取り側が凄いのよ」
ということ。

特に私みたいなこういう内容の書き方をするものに対して、そこを埋めるという事は、受け取り側の力でしかないものだから。私が具体的に書くのが好きでないというこのスタイルで書き続けていると、明らかに観えてくるのはそういう事。


例えば私は比喩としてでなく、事実としてその記事を書いている事を、”比喩的”に捉えるには抽象度を上げて捉える事ができなければならない訳で、それは”読み手”の話。

文字・文章をそのまま捉えるという事”それ以外で”解釈するには、そこから離れた状態に持っていかないと出来ない事で、それは当たり前の事ではないと私は思っているから。

いつだかFacebookに書いた様に、抽象度が高い状態というのは、比喩表現をしなくても「比喩になってしまう」ことが多々あり、それはこちらのスキルと言うより、私は受け取り側のそれと解釈をしている。


自然な行いとしてされている事を具体的な文章・文字で解釈しようとすると、かえって難しくなる事がある。

それは、脳の使い方の個性によるものもあるし、既に脳でパターン化されている事と言うのは、言語にされると一瞬気づけない”一体化”された事もあるから。

捉え方というのは、言葉(意味)からだけでなく、映像やイメージ、置き換えなど、自分の分かり易いカタチで取り込む事が多い。それでなければ”理解”ができない。


外のカタチを知る事の一つとして、自分の出したカタチと異なる解釈を、そのまま観る、という事も一つの方法と思う。

その内容は、自分の好みとは関係ない話だし、好きである必要も納得する必要もない。

ただそれは、誰かの持つカタチという事は確かなのだと思う。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!