ふとした時に”氣”がつく
するとなしに(意識に)スイッチは入るもので、それを「切った時に」その状態があった事が分かりやすい。
⦅さぁ~終わった~、横になれる…⦆
そう思い、横になる準備をした途端・その姿勢に入るような、正にその時など「…、あ?そうか…」と、さっきの余韻を引きずった答えとか、そこに繋がる何かとか。そんなものがポワンと押し出されてくる。それだけ”考える状態”というものは、中にあるものに蓋をするような状態になっている、という事。
答えらしい答えなんかじゃないことの方が多いかもしれない。”答え”なんて分からないんだから。ただ、さっきとは違う繋ぎ方をされている事によって、あの時では分らなかった、見える事のなかったものがそこに現れるということに、間違いはないだろうと思っている。
そのスイッチが切れることで、考えなくても”在るもの”がただ出てくる。それはきちんと、”自分のこの内に”いつもある。
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(音の続き・lineメモ)
あの後、「歌」でやってみた。歌詞(言葉)とメロディがある。この場合、言葉だけの時のように出来なかった。また別で、メロディのみでも試した。こちらも”出来なかった”という印象。
ただこちらは、「両方で」挟まれて聞いているような感じで取れる。ほんの少しずつ聞こうと思えばできるというレベル。自然に外側で取る(聞こえてしまう)音によって内側の響きとしてなかなか拾えない。捨象がしっかり出来ないと、内側にこもる事はできない。
「集中状態」とは、余計なものと結ばれない、ほとんどの情報が遮断された状態。止まっている部分が多い状態だ。
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私は「音」を聞いているのが好きみたいだ。あれから色々聞いてたけど、実に心地良かった。私にとって嫌な音と感じるものは勿論あるけど、それは理由も探ってある。
心地良いものには、とにかく私が音に吸い込まれている。(音声でなければ)言葉は*内で響かせることの出来る静かな音だ。目より以前に、音の心地良さが沁みている…。(言葉は*=恐らく表記の事を言っているのだと思う)
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Yに確認。
Yは、「歌は可能」と言った。理由は以前のラジオの通り※
メロディを追うから、歌詞はそこに溶けてしまっている。演奏というものは、一つの音に絞ればなんとか…という感じ(という)。私はこのケース、殆どが外に響いて普通に聞いてしまいほぼ出来ない。
だけど主人は、「初めて聞く曲に”なんでオレ、知ってるんだろう?”と思って気づいたのがきっかけだから…」と言った。
(※ラジオの通り:以前に曲の話をしていて、私は言葉、歌詞に関心があると話した事に対し、主人は「メロディしか聞いていない」という様に言った。そちらに意識を持っているので、”歌詞”はその音とともに溶け込む、一緒に流れて行ってしまう状態がある。意味を考えた聞き方をする”習慣”がない(少ない)。”言葉はどうでもいい”と今回の確認でも言った)
その後、同じ曲を2人で聞いてみても、私は言語だけを聞いている状態には程遠く、重なる音が多くなれば、(内側で音を拾う)この「意図的にする行い」は難しく、意識的な限界とも感じた。主人は私よりは”可能”という様子ではあった―――。
演奏だけを聞かせた主人のその言葉が、少し私に残ってくれたかもしれない。
「それ、知ってる所もあるから…(笑)”オレ”が言っちゃってるかも」
この時点ですでに私はできなかったので、主人の話を「そうなんだ…」と受け取って終わっていたけども・・・、翌日、私はまたやってみる。
”内で音を取る”。出来ると言えばできるけども、かなり自分の音”記憶”で取ってしまっている感が強い。Yも同じような事を言ったな…。記憶になってしまっていると、それを行おうとすると(内で聞こうとすると)途端に、「再生」をしてしまう。
言語のみの、純粋に響かせ取ることができていた状態とは、私にとってはまったく違う。大きな開きがあると思った。
知らない曲では勿論、自分からの”再生”はないのだけど、外側の音がやはり強く、内は純粋に聞こえてこない。
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普段、主人が「内側に入ることが得意」と、私から見て感じていたのは、こういう事もあっただろうと結びついた。外側が意識することなく省かれている状態が彼の”普通”。外で起きている事に無関心、聞こえないという事が”普通”という状態の裏には、こういう事もあったという風に感じている。
世の中の出来事に一々、わーわー騒ぐ世論に対して、「なんで気になるのか分からない(;´・ω・)」といつも言っていた。それが普通に聞こえる人からすれば、主人の言う状態は意識的に”無視”しなければならない事で、主人はそもそも関心自体が向かない&そこは”省かれている”、という対極な状態。決して意識的にやっているものではなかった、そうなった理由は昔にあったかもしれないが。
主人の場合、分かってスルーでなく、そもそも視野に入っていない・気づかない。そういう事なんだろう。
そしてだから。
社会という外の世界で、そこに居る時間は、逆に意識的に普段は使わないスイッチを入れることになるので、それは今度は当人からしてみれば、”酷な環境”となるのだろうと。
誰も、自分の居心地のよい世界で過ごせることが快適である事に変わりはなく、同じく他者と交わるその環境にある状態でも、人によっては、その刺激が強く感じてしまう、「個人の標準」があるのだろうと思った。
様々なケース、環境で、少しずつ他者理解に繋がることを望んでいる。