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分かる・分からない・分ける

実際に。

意識が既に違う所へ行っている、と私が感じているだけで、その事に触れずにシレっと書き続けてしまえば、「そういうもの」という風になってしまうもの。だからその”感じ”を書かなければ、それはそれでも済む話。

だけどやっぱり、意識した事を放棄することって、基本、気持ちが悪くて、予定通りじゃなくても、想定と異なっても、ソレを表に現わしたい…、昔からの私の在り方。そのままを出してしまえる方がとても心が軽くなるものだから。

違う見方を書くと、既に移っている”やりたい”を、「やらなくちゃ」で引き止める事は難しい状態がある、ということ。単純にそういう事(*^^*)

(と、その時の気持ちを書いておいた)


昔から主人に何度も聞かされてきたエピソードがある。

【ごらん!のすぽんさー】

ありましたよ、確かに昔。テレビCMの間だったりね。

「”ごらん”の意味は分かってたからさ。”のすぽんさー”ってなんだよって(笑)」

主人が子供の頃、その言葉が気になっていたと、何度も聞いていた。

「この間さぁ、ラジオで言ってたんだよ、その話。その視聴者は【ごらんのすぽんさー】って全部繋がってたの(笑)やっぱり他にも気になってた人がいるんだって思ったよね('ω')ノ」

この話は本当におもしろいと思ったし、これは先日のstand.fmに収録した内容のほんのちょっと後のことで、私の中での話としては繋がっていた。

・・・

「わかる」という言葉は意味によってつける漢字を変えたりするのだけども、私が多く使うのは「分かる」という文字。何度かその理由も書いてきている。

「わかる」というのは”分かる”ということ。分けるという意味の分かる。

主人は、”ごらん”の意味はわかってたからと言っている通り、「音」はそこで区切られている、分かる。

そしてラジオの方はきっと、何の説明もない「音」だけがテレビから流れるその状態で、自分の中から”分かる”意味が見当たらなかったから、「全部の繋がりのまま」で言葉であるようで、音のままに区切られなかったんだろうと思った。


この話の後に主人は、「そのうち”スポンサー”っていう言葉も分かるようになって、”ごらん の スポンサー” って意味が分かったんだよね。それを知った時、あー、そうか!って思ったもん(笑)」と話していた。

主人が音楽を聴く時、基本はメロディという話をしていた時、私は「じゃあ言葉がメロディと共に流れていくね…?」という話をしたのだけども、その時もう一つ例を出していて、

『マントラ、真言みたいなもんだよね。あれ、ちゃんと意味がある訳だけど、私みたいな知らない人からすれば読むのにどこで区切ったらいいかわかんないし、当然意味が分かっていないから、どこで切れば良いのか分からずに流れるよね…(笑)』


自分の中で「意味」が分かっていないものは、どこをどこで区切れば良いのか”分からない”。”区切る”という事ができるのは、その言葉と言うツラツラ続く「音」が、意味によって区切られる事によって”分かる”。

音の話だけでなく、目に見る景色という「柄」全体も同じこと。それだけ個々の中に知っている・分かっている、言葉(意味)があるから、全体から分けられたソレというものの存在を見ている。

意味を知っていることは、「分かって」しまうこと―――。

・・・ ・・・ ・・・

言葉が個々による、感覚的な表現になるのは、その人の”経験、積み重ね”なので、そこを観るには一旦でも(自分の思う)意味という範囲を抜けて、全体というその流れ、文脈で「どこの位置づけで使っているか」という周辺を見なければいけなくて。

いけないと言うより、それがその人の使う言語・使い方。

個による区分けがあるのは当然だけども、共通として通ずる使い方が「意味」でもあって…。

人と話すのか、
意味をとりたい(解釈したい)のか、

それらの選り分けと、その結果の統合でそこに絡んだすべての事が消化される。

・・・

これは、私たちは本当に色々な”工程”を経て、理解しているよな、と思ったこと。

そもそも、”その言葉の意味”が分からなければ、「分からない」ので、まず意味は知っている事で一つ材料は揃い。そして上記の内容は、他者を観ている時の様子を書いていたものだけども、自分が使い慣れているその使い方、意味から、一旦離れる(抜く)事をしないと、他者がそれをどのような意味で使っているのかという事が見えてこない。

会話をする為に、共通する手段として言葉を使っているけども、その言葉を特有の意味で、または特定の範囲内で通じる言葉で使っている事もあったりと、自分の知っている言葉・その意味から抜けて、”全体の流れ”を観ないと理解ができなかったり、自分の知る「合っている」に合わせてしまえば、その周辺の説明(言葉)が、間違っている、になってしまったりする。

こういう様な経緯があったりして、「自分を抜く」という事の本当の状態がしっかり見えだしていた・・・。


分かっていないものを、どう「分かって」もらうか。
また、どれだけ分かる(分ける)かを、決めること。
・・・いや?

決める場面もあるけども、ことコミュニケーションにおいてなら、相手のその”分け方”を観た方が早く同じ層に辿り着くかもしれない。

その層の中に入るということは、「”自分”を抜く”」事に自然となる行為。自分の層=分け方、をそこに適用しないということだから。だけど難しい。そう簡単には区分けが替わらないからムズカシイ。

でも理屈はそういう事だね。何を柄で流し、何を”自分”で止めているか。それが「その人」。

そしてその「区分け」があまりなされていないその状態を、他者がその目に見る時、それは同時に分けられていない世界・柄を、そのままに見るのかもしれない。


この、最後の「…それは同時に分けられていない世界・柄を、そのままに見る…」これは、まさに全体の部分を見ている状態だとこの時私は感じている、別名”シンクロ”。

シンクロの内容は幾つもあって、そのうちの一つとしか言えないけども、自分の思考する状態は止まり、その”対象”を例えば「どういうことだろう…」とその中に入って行くようなその状態にある時、それは、分かれていないし、分かっていない状態と同期している。


「そんなの分かってる、分かってるよそんな事」
”分かる”って、その場で片づけてしまうことだよね。

その一番近い時点で”分かる”という事は、一番近い所で分けてしまったということだよね。

言葉は遊びだけじゃない。
分からなければ、旅する事ができるのだ。
分かるという区切り、”音”はいつも切れることなく続いている。
それを人が「意味」で区切るもの。

「そんな事、当たり前じゃん(分かってる事)」

それは、理屈や知識上の話だよね、殆ど。
私たちは大抵、この現場、現実で動こうとした時、”できない人”なものだから。

この時、現実という世界で、身体を使って生きていないなと、思った。かなり内部の世界で、意識上で、情報の中だけの世界で生きているのだと。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!