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高い所がお好き(*^^*)

これは《私信コーナー》の”本文で”とした分として書いている事がベースだけども、もはやそんな事はあまり関係なくただいつもの様に、どうぞ(*^^*)


私はやはり、「どちらが正解」というものは現時点では”ない”もの、と考えています。これはどんな事でさえも。

あまり表面上の(現実世界の)具体的な例で書くと、そこに強いフォーカスをするのが人なので、避けたいのだけども、ちょっと例を。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

私は何かが「視える・聞こえる」人ではなく、ただその様に視える(感じる)という事を大前提として、

アベさんーヤマガミさん。
同等、重さ同じ。
影響力とか格とか。
今はそう見える

と、7/15にメモしている。

表側での付随したアレコレの判断は、未だに尾を引きずり着地は見えない。

人の世界で色々を考えたら、ジャッジがあって当然で、ルールがなければ社会では混乱してしまって。

同じ社会の中に生きていても、人それぞれに”見る”世界は全く違うのに、脳に見せられるソレは全く千差万別なにの、ハッキリとした「正解」が出る訳はない、と思っている。


それは、
どこかの時点(地点)で、
どちらか(左・右)に偏り、
一時的にでも『決めた』

だけであって。

それらの全ては永遠であるはずがなく。
もっと言うと、それらを決めたのは各々の価値観を持つ”人”なのに、入れ替わった時代に違う価値観の人がソレを支持する(維持する)という事を、私には考えられなくて。

そんなとても難しい事をこの現実世界(社会)では行っているんだな、と思ってしまう。


だけど、それが不要と思っている訳ではなくて、一時でもどちらかに「決める」という事をしなければ、これはただ流れる”映像(模様)”のままで、一向に”カタチ”にならなくなってしまう。

正しいかどうかでなく、その時考えられるベストで「判断」する事が、その時の最高で、「あの時の判断は間違いだった」というのが最も間違いな事、と私は思っている。


何かが表側で露呈するまでに、フツフツと内部で燻っている物があるのは当たり前で、それが露わになるから、表側(現実・社会)で気づく事ができるのであって、人がみな潜伏状態で気づければ、こんなに騒ぐ事もない。

裏読みする必要もなく、ただ純粋に「今」の中から観る事を、シンプルにしてもいいのだろう、と思う。


現実的には表側はスッキリ見えても、ガッツリビッシリグチャグチャと絡んでいるモノがあるから、「駆け引き」が必要になってしまって、個人的にはそんな中へ関心が湧かない(笑)


ちょっと、社会から”個人”の方へ落としていくと。

個人に於いてはもう全て、「自分自身が決められる事」とただ単純に思う。それが誰かにとって良いかどうか、他人にも利益になるかどうかという事などは、非常に美しいと私は思うけども、やはりまず”自分”。

この考えは若い頃から変わらない。

『自分との約束が守れなくて、他人のソレがなぜ守れるの?』

若い頃、放った言葉。

自分との信頼関係をしっかり築いている事。どんな状態でも自分と離れない事。その優先の結果は、他人への”利益”に繋がるという”配線”を持っていていいと思う。


例え(他)人より優れた技術があったとしても、それは誰かに対しての一部で通用する事で、逆に誰かより何かが劣っているのが私たちのデッコミ・ヒッコミで。

そんな事を”大いなるモノ達”は何も言わない。

過去にも書いた様に、「その様に言う」という捉え方が、私は”相手”に対して失礼な事、という考え方だから(*^^*)

”人とソレ”は分けなくてもいい。分けていないから、この考え方が今朝記事の”上位者”の話と被っている訳だよね。相手を”大いなるモノ”という位置づけならば、小さい私たちは、尚更自分を堂々と生きていていい、というのが私の考え方・在り方。


平等だ、全てはひとつだ、という考え方までは誰でもできるのだけど、それが”行動”にまで染みついている人は恐らく少ないよ?

それを鍛える事が出来るのが、この現実世界だと思うので、何か特別なシチュエーションを用意するのでなくても、一つ一つの”言行”の向きを見てみても良いと思う。


その中で、気高い事が素晴らしいのでなく、出来る・出来ないをそれぞれ見る事が大切で。しかも”出来る事”は見やすく、”出来ない事”は拒否したくもなり、それを見る事ができるという事がステキな事なんだと思っている。


波動”という言葉を使う事が私は殆どないけれど、「上下同じだけ開く」と昔耳にした言葉は忘れない。

「…、という事は。上じゃなくて、下を開けば上も開くんだ」

私自身、そう気づいて自分の見難い所を見続けてきた2~3年(?)。


煌びやかな方でなく、地味な方を選んでも結局、対比で上も見えてくる。

オモテを流れるモノは、いつも何でも目立つから、取っかかり易いけど、もう一回りも二回りも大きくなっていく為に、自分の厚みを見ていっても良い時なのだと思う。

一旦決めた事を出来なくなってしまう事さえ、”自分”で良いし、だから本当に肚が決まった時に自ずから動き出していけるし。そのタイミングは何より「自分の意識」が全て把握している。


上下で捉えないとしても。

”自分の生意気”を通すという行いは、「相手を認めている事」に他ならない。言葉で尊敬・敬意よりもよっぽど相手へ信頼している事を伝える手段であると、私は思っています。

ぶつかっていける事は、互いに最高な在り方。

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☆うみのみか☆
応援チップありがとうございます。自然と学べる記事の提供で倍返しいたします!コメント頂ければ内容を盛り込んで記事として出力いたします。 共に学んで参りましょ~(*^^*)