色々なハナシ
イヤ~なイメージ(想像)をしてしまった時、
「NO!」 「ない!」
と、浮かんでしまった画を消すような事を自然としていた。
これは今の時代で考えると、”現実化してしまう事”を取り下げる行為だし、思考のクセ・パターンなどの記憶として定着させることの「阻止」と言えた。
これらが正解かどうかよりも、
「”自分”って、何でも知ってる(分かってる)な。」
と思ったりする。
そしてこういうケースがどんどん増えてくると、自分のする事の意味など深く考えなくても、自分の行いに対して「信頼する事」が自然と出来てきたりする。
「自分の事、信じてます!」
って言ったって、大して深い所観えてないから(笑)
私はその都度、笑っちゃったもの自分に。
後で気づくたび、「なんだよ、あの時の言葉って…全然分かってないじゃん(*^。^*)」
みたいな。
でも、当時の私は目いっぱいに、本当に分かってるのよ。
それが、その位置・深さが変わると「分かり方」も違う、という事だけなんだ。
だからやっぱり、いつも自分は精一杯やってるの。だから後悔なんてこれっぽっちもないもの。
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昨日の記事を書き終えた後(10/4)、俯瞰した事をメモしていた。
”腑に落ちる”というのは実の所、「なるほど!」と思った時より、用意もしていなかった時にズルっと落ちるのが大きく感じる。
それは”経過”により、なるほど➡あー、そうか!の方が、よりしっくりとした実感があるから。
時を経た事による「重さ」というものが、”なるほど”の、軽さの違い。ズルっと肚に溜まる感じがある。
そしてFacebookに上げた、これも同じくメモしていた事。
軽い感覚で「アハ体験」と書いた。私の中では遠い昔にテレビて知っていただけの言葉。
でもウィキ先生は教えてくれた。そうですよ、と。
認知過程が完了した後に現れる特徴として、この体験がしばしば現れる。
と、一部にあった。そして”アハ体験”はドイツ語で
硬貨が落ちる=腑に落ちる と言われる事がある、とも。
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私は今まで、恐らく「ここの部分」を、「タイミング」と表現していたのだろう、と言えた。
これでまた、ペンディングのモノは詰まれば(”密”の意)きちんと落ちる、という事も理屈でフォローされた。
(私は昔、”理解できない事”は、そのままぶら下げていていい、と発信していて、それは今でも同じスタンスでいる。ムリヤリ解かった事にしない、という事)
ただ放置するのではなく、「引っかかった状態」という、少し気持ちの悪い状態で、”意識下”に置くという事。
それによって関心のある状態は無意識的に働き続けていて、それを探す、解消するように脳は動くと考えているから。
RASというのは、心底頼れる機能で、存在。
以下は、私の思考の範囲を出ない「顕在意識側からの考え」です。
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自分の関心が拡まる➡RASで探すもの(寄せるもの)が増える
関心を向ける範囲が拡がれば、当然それらを脳は探しに行く(事が多くなる)。意識すればしただけ「探しに行く脳」と考えればこれを、”思い通り”と感じる事が出来る。
思い通りの言い換えの様々は、
・生き易い ・叶う ・思考が現実になる
スピで話題になった言葉たち。
そしてこれは、”情報段階”と言えて、この段階はきっとそう難しくはないのだろう…と今は思っている。(この感覚に慣れるまで私は散々、シンクロが起きて凄い!!って感動や興奮をくり返した)
これを「物質」の状態にするのには少し”足されるもの”が恐らくある、「時の経過」というもの。
小さなモノ・コトは”即”だってあるのだけど、創り上げなければまだカタチになっていないモノがあるから。
これが、情報というアイディアが世に出てから、いくらかの人が目にして、それを「カタチ」にしようと自分を含む誰かが「物質化」する、と思っている。(私の中で”願いを叶える”というのは自他の区別はないものとしている。自分で”叶える”ような事は願いではなく、計画。)
また、シンクロ(引き寄せ)などへの考え方は他にもいくつか感じていて、
「自分の影響力」を感じている時に、(何かに対して)感じる印象の事。
そしてそれを、「その周囲」も同じく感じている、状態。
だからそれは、
シンクロ(引き寄せ)の方じゃなくて、「影響力」の方を周囲も感じているのだと私は考えている。
”注目”という事は、少なからず「影響が及んでいる」と言える事だから。
そしてもう一つは過去に何度か書いている、「何か”漂っているモノ”を掴んでいるんだろう…な」ということ。
これは何の説明も出来ない。ただ意図もなく”ただ浮かんだもの”を自然と発信している中でシンクロが起きるなら、その「モノ」のエネルギーが同調しているから、というような考え方。
先日、「シンクロは当たり前」と書いたのは、大きな意識は繋がっているから当然な事、共有している部分だから、的に書いた。
それを、顕在側から考えると、「違う事・一致しない事の当然」の前提から始まって考えるので、ややこしくなる。人は様々な思考をするから。
でも、この「違い」こそが、私たちが各々異なる思考をするという事の証明だし、それが個性・特徴とも言える。
みんな同じ、みんなある。何にでもなれる状態から顕在へ流れるほどに「個」は際立っていく。