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先へ行くほど分かれる
「このカレンダー、使うの?」
携帯ショップでもらった小ぶりのキャラクターカレンダー。私(1階)は使わないので主人に聞いた。
「ここは動物病院のカレンダー、あそこは“Iさんが持ってくるから”、要らないのよね…。」
そんな理由で、主人が部屋で使うと言うことに。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
なんだかんだと一段落して、ワン達もみんな夕寝zzz
「ピンポ~ン…」
また選挙の挨拶かな…今年は大分熱が入っていて、もうやかましくて私はウンザリしていた。
主人がインターホン応対して外へ出て行った。
「みか、“Iさんがカレンダー持って来る”って言ったよね…Iさんだったよ、カレンダー持って(笑)」
そう…
こういうのが昔はとても楽しかった。だってスゴイ事、と思っていたからね。
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(メモより)
考え方・捉え方が増えたか、という努力。
正解/不正解じゃない。
というのも、理解した(と思っている)相手の事なんて理解できない。”したつもり”。その時の相手の本意なんてまた変わってしまうかもしれないのに。
「”私側”が、そう決めてみただけ」
ニンゲンに関してはホントに分からないもの。
「みな、一緒」だったから「同じ」、という所から進化するほど私には分からない。それは、他から私を見ても同じこと。
私が昔、「自分を認めて欲しければ、他人を認めること」などと、平面的に捉えていた。もちろんマジメにそう考えていた。
今少し違うのは、
分かれてしまったのだから、それぞれに開きがあって当然で、認めるとか許す(受容する)とかの言葉もあまり使いたくない。
「それがアナタ(というモノ)なんでしょ?」
という所。同じように、
「これがワタシ(というモノ)なんです」
という在り方、生き方なんだろうと表現する。
そこには、
同意がいらず、期待も落胆も必要なく。自分を埋める”欲しい”も、他人に差し出すgiveも必要がない。
「過去のメモ」が溜まったままで、結局noteにする事なく終わるものもボチボチ出てきた。
そりゃそうだ。
日々、静かにしていたって、これだけ”忙しいコト”が押し寄せていたのだから。過去のモノに戻ってる時間があまりない。
それは今、始まった事じゃない。自分の外側を静かにしたから内で感じるモノに集中し続けたらそうだった。こんなにも次々、観察されるモノ・コト。
忙しかったね、良く働いてくれて。ありがとう。
モノ言わなくても、しっかりきちんと、そこにはあるのだね。
あなたというモノ。
わたしというモノ。
他を好きである必要はない。自分が好かれている必要もない。
ただそれぞれが、それぞれの”存在”として、「そうだね」という事なんだろう。
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その時に合ったものが「顕れる」
のだから、「人」に執着する必要がないと分かる。
”誰かが導く”という誰かは特定の「人」ではない全く。
縁も所縁もない、”一見さん的”見知らぬ人かもしれない(それが”縁”という考え方もあるけれど)。
「事象が集まってくる」
これを、”自分が起こしている”、”創り出している”など、言葉に囚われることなく、その状態を観てみるといい(かもしれない)。
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