無意識から意識側へ
今年は少し、はっきりと書ける所は、はっきりとした表現をしていきます。それは、今日の内容とも重なる所でもあるのだけども、”当たり前”ということは、言葉上での表現に留まらず、在り方として「そう」であることなので、当然としか言いようがないもの。
それは、例えば「上からの物言い」であるとか、「自惚れ」などと周りから言われたとしても(空間によっては)全く関係なく、「この自分の在り方として当然のもの」という話であること、「(ある部分の)外がその見方をしている」というだけのもの。
表現の工夫は必要だとしても、在り方は常に毅然としていて良いはずで、誰かに何かを言われるなどを気にする必要がない。
違う言い方をすると、同じように”当然”の在り方を持っている者はそれを、上からだとか偉そうだなどと一切思わないもの。その在り方は「当たり前」だから。
どうしても世界(社会)が視野に映り、それが意識にあるから葛藤なども生まれやすいけども、それこそが、「自分の中の在り方」として見ることも出来る―――、「そう言われる、言ってくる方が”気”になる」という目線。
自信のある様を、その在り方を全く否定などしない、それを当然として見る人たちが世の中にいる事を知って欲しく、今後も意識したいと思う。
「スイッチ」に関して確認のためもう少し触れようと思ったので、書いて行きます。
”継続していく”事に関して書いていた昨日の段階では、その中身の通り、「やる・やれない」という様な段階の話なので、一日、また一日という短い目標をこなすこと事で自分へのクセ付けとしている為、「都度」意識に上げるというくり返しになる。
そしてそれが自分の習慣として当たり前になると、やらないと気持ち悪いとか、「”やる”ことの当然」からのものの見方になる為、次は内容へ意識が移る、考えるようになって行く。
ただ昨日書いていて思ったのは、内容のブラッシュアップはともすれば「続いているからいい」という安住に埋もれて気づけないか…と感じたので、少し触れておこうと思ったもの。何かの目的や目標をこなしたら、また違うものや中身の吟味、工夫へ意識が移らないとそれこそ惰性となる…私自身の思いからそう感じた。
自分の、当たり前になってしまったものは、自ら気づくのは難しい…、だから「他者」が必要になる―――メモから。
例えば、足元=自分の”当たり前”を見るのがとても難しいならば。
やっぱり他者の存在が参考になる。というより、それしかない。自分を観るためにここは他者を見る。「他者を観る」ことではない。
そこに該当する部分が他者とは”違う”から、自分の中に違和感や嫌悪感がある。他者を見る目線で終わらず、自分に戻す…、”私”はどうか、と。この時、普段は無意識の言動が意識側に上がって見える。
「自分の見える化」の為なので、他者や私の、”その事”への判定はいらない。”私”を見て、それが本当に必要な行為かどうかを”考える”機会を掴む。殆どは今までの習慣、当時は何らかで必要だったもの。今もそうとは限らない。
そして「今」に合わせていく。それでも必要であれば継続すればよいし、気づけば捨てられる断捨離。
普段は無意識に動かされてしまっている状態から、意識へ一度上げて吟味必要であれば残すということ。”思考”の域へ少しでも持ち込むことが取捨選択を助ける。
・・・
何かをメモしたり、ここへ書いたりすると、発信という作業に留まらず、自分の中、その行いを観ることになるので、書きながら掴むこともある。今回も昨日と合わせてそんな事を感じている。
私が今まで「嫌い」だった、こういう具体的な、はっきりとした言い方。こういうものは自分の表現として避けてきた、”そうしたくない”と。だから書いていて、自分の中から少し抵抗も出る。引っ込めたくなるようなモノを感じる。
私の関心事は今までと変わらないけども、目指して行く所も変わっていないけど、表現の仕方は全然変えていく事ができる。
内容の変化と表現の仕方などに意識を少し傾けて行きたいと思います。
内容がシンクロ(関連)してしまうと、読んだ時に「反対されている」という様に感じることがある。私は昔そういう事をたくさん経験した。
そしてもう何年もの間、「読み方は受け取り手次第」として来たように、どうしたってその様なケースが発生してしまう事を、触らずに書き続けてきたのだけども、「その様に感じてしまうかな…」と思われるものに関してはこうして”説明”を入れます。(私はこの手のウダウダの説明が嫌いだったのであまり書いた事はないと思う)
重ねて言いたいのは冒頭に触れたように、分かっている”同士”たちは、意見が違うことを否定したりしないしそれに自信を持っている状態を悪く捉えたりしない。考えることが正反対だとしても、自分の決めたそこへ向かおうとしている者に対して口出しする事などない。
ただ、現代のSNSなどの仕組みから、タイミング的にシンクロしてしまう事は非常に多く、目にする事も増え、自分が(読む側が)揺さぶられる事もある、そんな環境の中で。今までの様に「目にしたこと」からそのまま解釈していたら、世の中の多くが敵のように見えてしまうこともあるので、少しクドク書きました。
誰もが「私」の意見を言っているだけ。
自分と他者のそれが違うことは”当然”のことであるもの。それでも繋がれる世界はきちんとあるという事でもある。