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ポケットの中には…

あ~(*^^*)
主人の名誉のために書きますと、主人は仕事もしっかりこなし、憶えも正確です。

逆に言うと、その「キッチリ」が、自分の内部に”負担”を抱える事になっているとも。外に向ける目線は必然的にそういう目線になるので(苦笑)何でもない時には「広く見る」ことは出来るけど、「状況によりクセが出る」というのは、誰にでも起こること。

そして(主人は)、根拠のない自信をしっかりと持ってもいます。そんな人でさえ、古くからの習慣・クセという脳の”配線”、その折り目は、簡単には変わらない…だから地道にやるのです。

以上、補足でした。


この記事の中で書いた所に触れ始めたいと思います。(左記、読まなくても以下へ抜粋)

※昨日の記事の内容の一部には、ずっと私自身が考えている(抱えている)表現がある。それはいつか必ず触れる。”思考”からでなく、しっかりとその様に視える(感じる)時をずっと、自らの中に待っている。まだウラ側に隠れている方が多いから※

9/9気づくという必然より うみのみか


簡単に言えば、私が事あるごとに「自分を優先にする」と表現することの説明なのだけど。

結論でいえば、「どこで区切って見ているか」というだけの話で、なのに「自分」を強烈にプッシュする書き方をする理由は、殆どが”他者の為に”を、良いこと・美しいこととしてその行いをしようとしてしまうアンバランスな状態が多く感じられる様に思うことから。

それだけ、「人がいい」という事を、感じることが多いから。(それは”この国”という風に言えるかもしれない)

これは、逆に言うと、”他者”が優先されることを自然にできる人は、わざわざ言葉に出さずにそれは「行い」として現わされているもので、行動があれば、同じ事を表わす”言葉”を置く必要がなく、そこには別の”私”の目的がある、という解釈ができてしまう…ということ。

また、他者の為に…と考えなくても自然とそう思う時、人は言葉より先にその行いをきちんと採れるものだから。その「想い」は、芯からであれば確実に言葉より動作が先、という考えになる。これらが私の表現の理由になっています。


この”私優先”の書き方をすることで「私の思う」以外の捉え方が発生することは仕方のない事で、それは私が想定・認識していくものという範囲で捉えています。

”材料”が揃ってくると、カタチとなって、表に現れる―――。

・・・

9/17メモ

「強いサポート・導き」

例えばそれが、サインとして届いているとして。

それは、受け取った”私”という人が、その様にされていると言える訳だけども。ただこの「」は、使い方は”私”という人によってそれぞれに出来ること。

それは、人の視野・世界が、どの様であるか、また自分の意欲はどこに向いているか。そんな事にも左右される。善し悪しでない、自分という人のその時の”状態”が、目に見えるという事だと思っている。


例えばもし、私に力があるならば、それは”私個人”に対して使うより、たった一人で使うより、自分以外の他者・世界を範囲とした方が、効率が良いに決まっている。

そしてこれは一見、他者を優先にした美しい「お話」のように捉えることも可能だけども、それは必ず、それを成そうとする”私”という人の想いが起点になっていると、私は考えている。皆という時に、そこに隔たりはなく私という人も含まれている。

少なくとも私はその様に思っている。

ーー言葉のマジックーー

すべて 私 だ
”私”はすべて (なの)だ


9/20メモ

・扉 を変える
・”入力”…ポケットへのしまい方

「ソコ」から続く未来。
ソコという何か=材料があって。
その材料がこのアタマの中に、いっぱいあるわけで。

その”何か”の入力をその時の「私」が処理してしまうわけで。

その処理の仕方=ポケットへのしまい方、によって次回以降のポケットの取り出し方、が決まってしまうから。

それはAのポッケから、これはBのポッケ…。

喜・怒・哀・楽
の表現で良いと思うけども。
とても大切なことと思う。


あーして書いておいた事(引用部分)から強調される、「どのタイミングで書こうかな…」というハタラキが、より意識的になる。

「私ワタクシ」というものが先にないといけない。

私自身は数年間、”私”というものを抜くように過ごしてきた所がある。勿論、”私”が完全に抜けることは”ない”、と私は思っている。

これは他者を優先するという表現よりも、自分の中の”私的部分”を抜くという意味だけども、この状態が結果的に自分以外の全て=他者、が浮き出る形になる。その状態でも尚、「私」は先にないといけない。

私が何かを意図的・意識的にしようとする時、当然のことながらそこに「私の意志・意思」がある。これがとても大切なことと考えているからそれが先立つという意味。


そうでない惰性から来るものであっても、この私の過去の残骸であったとしても、必ず「私」が絡んでいる。分解すればその過去の”私”は、その時であって、決して現在の最新の私ではなく、また世間によって作られた”一体のもの”として作られた”私”である可能性も高いけども、現実として抱えている訳で。

そういうたくさんのパーツ、材料が”各ポケット”から取り出されて使われ続けるわけだね。

ここまで、この状態のままで行き続けるなら、「私」というものなど存在しないかもしれない。それはポッケから取り出され続ける記憶、データ保存されたものを引き出して再利用しているに過ぎないから。

私達の機能・ハタラキは、あまりにも高性能なので、アップデートすることの必然性を忘れさせてくれるかもしれない。それだけオートマチックに生きて行ける。

十分自分に対して異論も疑問もなく、幸せでい続けている日々ならば、こんな余計なものを読むほど毒なことはない。ノイズはカットしていい。


その中で、何か外のモノ、ナニカに対して羨望であったり、不満やメラメラなどがあるならば、そのタネは自分の中にあるという事になる。外の現象を見て、それに対し感じることが出来るのは、この私だからだ。

そしてこの内から起きた何某かの”反応”こそが、各ポケットで記憶されたままの形で対応しているものなので、自分のポッケの中身を気づくたびに確認し、今の”自分”に見せてあげる・・・内観。

それをそのまま使う前に少し時間をかけて観る。

外部の何かを対処するのはポッケの中の”私”で良いか?今の「私」はどう思い考えるのか―――。”思・考”が入るだけで、少し時間はかかる、勝手に。


全てそういうことと思っている。

時間をかけてといったら、”時間をかける事”がすることではなく、目的の事を成していて”時が過ぎた”という結果。結果を先に持って来るというインスタントでは、いつまでもアップデートが進まない。

この中身の入れ替えが進んできた時にポッケの再利用でなく、更新された「私」の意志・意思を潜らせた自分が起点になってコトを成している、という感覚が持ててくる。

その姿勢が積み上げられて行った先に、無理のない自然な形での「自分と自分以外の他者・世界」、その重なりへと範囲が広げられるのだと思っている。


この時の表現は自分が優先とか他者が優先とかは適当でない。

一体。

グーーッと一度「自分」へ傾けて行った経緯から「一体」へ向かっている。始めから一体という感覚は、私の中には”理屈”としてしか今はまだ存在していないから。(ここ。少し背後に視えているもの、既にあります)


追)
「正しい(間違い)」ではなく、楽しく過ごせるような解釈、視野を広げること、だと私は考えているので。楽しく考える事は、新しい入力を「楽しみポケットに入れるクセ」がつくと、私は考えている。

という事は・・・、「取り出しはどのポッケか?」という話になる。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!