感じるというやり取り
自と他という存在、関係性があって
自分を主とする見方・在り方の目線を持ちながら、他という”主”以外の、外にみえるものその存在によって、この主も自然と色々何かを切り替えて対応している。
同じように―――
自分という一個の存在の中にも”私”という自覚できる部分とそれ以外の殆どの部分、機能という存在があって。これもまた”私”という自覚の持てる部分を主に置きながらも、機能の働くままにそちらに任せたり、合わせたり、頼ったりとこちらの選択(動き)を替えたりしている。
自分という一個の中で話したい
・”あなた”がそうであるなら、”私”はこうすれば良いね
・教えてくれてありがとう…じゃあこうするよ
・苦しかったんだね、分からなかった…ごめんね
他者との関係の中で使うような言葉、在り方でこの一個の自分の中の”私”の態度・考え方も変えられるんじゃないか。外の他者に対して可能ならば、この自分の中でも同様に可能だ。やる事は変わらない。
”私”と”私”以外という関係の世界。どちらかが動かなければどちらかが動いて進む。どっちもガチャガチャ動くのでなく、自分の動きを決めるためにも、「それ以外」の動きを観ることが大切だよね。
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少し前のメモから
これは、どの扉から見るかによって怪しくもなるし、感覚がまったく分からない…など様々と思うけども、頭の中で起きている動きを書いたもの。
そこには他に誰もいない状態で、人は一人でこのアタマの中で”対話”している…、まるで誰かがそこに居るかのように。
「言葉」というものがその様な錯覚を生むのかもしれないよね。そこに誰かがいる・いないというイメージの有無など全く関係なく、何かに対して疑問が出て問う、それに対して自然とあーかな、こーかなと”返答”する。「相手がしゃべるわけじゃなく、声なき声を拾う」ことは大切と思う。
書きながら同時に思うのは、「そんな事は必要ない」と即座に感じることができる人は、そもそも”明るい”部分で十分に下の暗い部分とバランスできている、と現段階においては言えるだろうということ。
幅を広げていくために下も掘ってみるというその行為は、別にやらなくても十分に生きて行けることだとは思う。実際にそうした選択が大半。良し悪しの話ではない自身への関心の類いでもある。
ただそれが、下側の暗さが明るさを引っ張ってしまう様な、気づかないその重さが自分へ効いてしまう様な状態にある人もまたいるので、自分の内部での対話は、まったくの「おかしな話」ではない。
それの解消が簡単ならば、その部分を手放してしまえばよいだけで難しい話じゃないけれど、そう分かっていてもそうはいかないから「そこに居る(ある)」わけで、それに何か引っ張られる”私”が出てきたりするから拾ってみよう…というもの。
”他者との関係”の時と同じように、そこに歩み寄ることなく初めから「いらないよ」という姿勢に出なくても良いだろうと思う。本当にいらないかどうかはよく観てからでも良いかもしれない。
出来事は、その事、モノゴトの「活かせる部分」を見つけ続けることだと思っているのだけど、自分自身の中でも同様のことが言えると思っている…、いらないと思っているのは一部の”私”なだけだから。
”私”は自覚できているこの自分なので、確かな存在かもしれないけれど、この自分の中にはそれ以外の働きをしているもの(ところ)が殆どなわけで。そういう所との”対話”という意味で、触れてきている。
頭の中のやり取り、身体が今こう言っている(教えてくれている)などは、こうして言葉にすると少しバカバカしくも感じてしまう所があるけども、だけどやっていること自体は、頭の中の自分や身体の状態などを汲み取っている自然なことでもある。
初めのうちは全くスムーズなコミュニケーションになどならない。まったく関係なかった、見当外れ、勘違い…ウソだねこんなの…、という感覚すら持つ。これもまた全く未知の他者とのやり取りが初めからスムーズでないことと同じ。
すべての事は「分からない」という事からスタートする。
カタマリのまま抱えて分けていないのだから当然のこと。それを少しずつホジホジ、チビチビなやり取りを重ねることで漸く”自分”が分かってくる。それが「自分の機嫌を取る」という事でもある。
自分の環境を「快適」な状態にしていく事は、大人にならばできる。その様にして自分を守る・安心安全な状態を確保する。
一昨日書いた主人の話の中の「嫌なヤツにはそうしようとは思わない」という事とも繋がる話になるのだけど、”そうしない”という事と、だからそれに付けて相手を攻撃することとは全く意味が違うもの。
イヤ、嫌いという事で、それが好きの場合と同様に行うことができないということ自体には問題はなく、その「自分の保ち方」が、外へ何かを向けてしまうという事に問題が生まれてくる、ということ。
自分自身を安全地帯、快適な状態に保っていることって、想像以上に労力が要ることだと、人は暗に解かっているから外の環境へ手を出している。
なんでも容易な方に人は進みやすいという事は頭に入れておきたいと思う。