頭の中の画・香り
思考、その概念というものから少し外れると、もうその様な”見方”はさせてくれなくなったりするのが「脳」。
逆に言うなら、違う焦点からそれへ向けて、自分の中で情報を集めたものが見え出す…、元に持っていた概念よりも強ければ、”少し外れた”のをきっかけに、その隙(間)を使ってしっかり他の見え方を張れる。
頭の中に、そんなイメージができた。
それはいつも何時でもできるわけじゃなくて、きっと、外から様々な情報を「そうかもしれないなぁ…」と引っかかるような色々を取り入れだすことによって、その蓄積でいつかパーーンと既成概念が壊れるかのようになるのかな。
パーーンと感じた時は衝撃も強い(大きい)実感となるけども、集中状態からのズル~~ッとしたそんなのもあって、壊れる時というのにも色んなパターンがあるだろうと思っている…、今のところ把握している大きなものはこの相反する二つだけだけど。
”思考のゾーン”という外側からの接近でなく、内側でしばらくかけてゴニョゴニョした時間を過ごして「あ~…」と繋がれる。
そうかそうだね、きっとアプローチの仕方が違うという事は、壊す/築くの違いなんだろうな。
今日は久々に感覚の話。lineメモを元に、そして感想を。
書いていて思い出した類似エピソードも続けています。
【視覚フォーカスは残る】
そう思った。
朝、門扉にいつもの場所でカエルが滞在していた。
日陰になる、外からでは分からない場所によく隠れている…色もきちんと変えて。
一陣目の散歩から帰宅し、カエルに注意してそっと門扉を閉じる。目線は玄関の方へ行っていた―――
前日の蚊取り線香は、台座の近辺に散らばり、散歩が終わった後に片付ける。
(あっ、カエル!?)
同じ色の少し大きなカエルが、台座にタテにくっついていた…んなわけはなく。珍しく台座に絡まるようにして、燃えて灰の一部がクルンと”立体的に”なっていた。
この時思う、「やっぱりフォーカスの名残りは確実にある」と。
私は門扉のカエルから完全に意識は切り替わって”次”へ行っている(玄関へ向けている)。だけど視覚のフォーカスは(脳に)残存しているから、私は灰色と周辺の黒とで色を変えた「カエル」と捉えた。違うのはサイズだけ。
フォーカスは意識に上げた事により発生する分かりやすいものと、既に意識から離れていても残存しているものとがあると確信した。
・・・
これはずっと私の中で探し続けていた事なのだけど、引き寄せやシンクロというこの”状態”は、明らかに自覚上で意識にしっかりと上がっている事によって、そう見える・捉えられるということがあるのは認識している。
ただどうしても、それ以外の部分が少なからず「ある」と感じていて、それが在る意味”外から来るシンクロ”という表現ができるもので。メモしたことはそのケースではない話なのだけど、事実としてあるだろうという事はずっと引っかけてきた。
この日の出来事は、やっぱりおもしろいと、静かに興奮したもので、いつもそこに大きめのカエルなど見たこともいた事もないのに、「さっきの配色」を使った同様の景色と「立体の何か」というだけで、”カエル”と一瞬で捉えることができる、というもの。
「その言葉・その意味を知っているから、この景色の、ある一部をソレと認識することができる」という状態とは違う脳内の処理の仕方を観ていて、なるほど、と思った。
「そこ」で捉える感覚が、人の機能にはしっかりと備わっている。それを「いや違うよ、これは○○だね」という結果だけを長いこと学習してきたのが現代の多くの在り方。
確かに効率は良いし、間違いも少ないかもしれない。
ただ、こういう感覚を味わうこともおもしろいし、こういう働きが脳にはあり、時に普通に活用される状態にある。考え出すということ以前に存在している機能は、普段の中に意図せず情報をプッシュしてきたりもする。
【その場にあった香り】
先日、恒例の夏祭りが行われていた。
いつもの空き地で行われるお祭り。近くなると草刈りが行われ、あちこちに開催の掲示が張り出される。
また、祭りが終わった後の翌日の空き地の風景も、どこか印象的に感じている。”昨日は楽しかったんだろうな…そして片付けは今日やるんだ…”そんな思いでその脇を通っている。
ミルクだけの散歩時、草もまだ短いし普段は入らないそこを横切った…、理由はこの日はミルクがあまり歩きたくなかったみたいで、進みが悪く抱っこしているのが殆どで、ショートカットするためだった。
狩りたての空き地は、草の茎がけっこう硬い場所も多く、柔らかい場所に少しミルクを降ろして、さくっと切り上げた。
暑くなる前にとサクサク歩く私、わたし―――、
(おっ、綿あめの匂いだ( ゚Д゚))
ほんの一瞬のことで驚いた。確かに一瞬甘く、完全に「わたあめ」の香りがしたものだから。
”あ~、記憶ってやっぱり凄いな”そう思った。
ここで私が気に留めたのは「この場」という舞台で、これをベースにそこにまつわる情報を”見た”という事だろうということ。
かなり頭の”後ろ”側で、「ここでは祭りがあった」という事実を敷いて、それに絡むことが乗った。これは全く意図的でないと分かるのは、私は綿あめが好きという憶えもないし強く欲しいと思った記憶もないこと。それでも祭りに関わる結べるものは、その情報として表される(押し出される)と感じた。
そしてそれは、文字の情報という言葉の羅列だけでなく、”感覚”の情報も同じように送られるという事なんだと思った。これは以前の、会話中に「カレーの香りがしてきた」ことや、知人のことを頭に描いていたら「漂白剤の香りがしてきた」という、考えていることに紐づく”感覚的な”五感情報も作動可能、と思った。
そこには実際にないもの。
確かめればそこにはないものが、この頭の中の処理によっては顕現するという事を理解した上で、物事を観ることは大切だと思った。
既成概念、既存のそう言われていることには正しく証明されているモノコトがあるのだろうから、それはそれで使えばよいと思っている。現に何かを考える時には、毎度築き上げることから始めていない、記憶を活用している。
ただそれだけでは違う世界が見えてこないので、頭の中の配線を、違う繋ぎ方にすることで見えてくる世界にたまには行こうよ、既にある”新しい世界”を覗いてみようよ、ということ。
今までに選択したことのない世界が今の中にある。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!