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”私”のカタチで見る

予想よりも雲が多く、そんなに暑くもない―――。
陽ざしのあった朝のあの時の方が暑く感じたところもある。そしてこんな事はよくあること。

今、というこの場所で連ねてみているから「いつも通りの時間で良かった(のに)」という感想が出る。

今というこの場に来たことで、連続に捉える見方をしている。

”その時”、においてまだ到来していない「時」を考えて決めるということは、分からないことを多分に含んでいるのだと、しっかりと解っていた方が良いよね。


自分の繋ぎ、中のことだから「合う」と表現した。最近では、この時の記事内でも同様のことを言っている。それは今までにシンクロという形でも表現している。

自分の中・内のことでも、外側(の世界)と一致するとはどういうことか。

その次元で捉えている”抽象的解釈”という事はまずひとつ確実に言えることで、人はコトという具体的な次元で捉えるばかりでなく、抽象的にモノコトを捉える頭のハタラキが使われている状態がある。


ここから書くのは、”私”の内側から外の方向を見て「そう表現できるかな」という印象を綴ったもの。書き始める前に同時に*逆側からの綴り方も大まかに浮かんでいる。

どちらともなく、”つながっている”ものは強弱なく、ただ繫がりとして見ているものだから。

(同時に*⇒初めに”私”の内側から感じている(捉えている)。それがパッと浮かんだことで次に逆側からの画(イメージ)も即座に浮かぶため、あまり時差を感じていないことによる”同時に”という表現。確実に順を追えば詳ではそういうこと)

・・・

「私」という個の存在は、いくつもの顔(層)を自然と持っていて、また状況・場面によって対応する”顔”は変わると、私は思っている。

それが良いという意味はなく、場面によりそれが必要ならばその選択となるし、”私”というものが現れている方が良い時もあるので、あくまでも使い分けなのだと感じている。

そもそもこの自覚している”私”というものは、引き継いだ血という元があり、教わらずに持っている傾向があり、その上に習慣として身についていくその環境、考え方、在り方などにによっていつの間に手にしている”私”となっている。

無意識になしていく積み重ね、何てことのない経験の連続によりそうである事の当然、という枠の中に収まっている状態だと言える。


当たり前に出している返答、この考え方は、積み重ねによって自分の中のパターンになっていて、同じシーンでは同じように選択していく”私”。そこで相手が違うという現況などは完全に無視されている事にも気づかない。それくらいに”私”というものの選択は当たり前、普通にされている。それはそういう習慣・パターンにしている”私”がそこにあることを示している。

この色々な個の理由・条件によってカタチになっている私というものは、本当に私かどうかも分からないままに私は”私”として扱っている、中身も確認しないままに。だってこうして一緒に、共に、居るのだから疑わない。

このカタチは、過去に作られたままのパターンを持っている事がとても多くて、そしてそれは、いつも勝手に全てが情報更新されることがない。だから意識的に変えたと思う私の殆どは”私”のままで、結局あまり変わっていない延長としてある存在になる。


このカタチを砕くきっかけになるものは幾つかあるのだろうけど、例えば心理的動揺の大きいデキゴト、そして小さくコツンコツンと砕いていく「問い」。この問いを自身に向けることで、なぜ、それをやっているのか、どうしてこうしたいと思うのか、などの理由を自らの中に探し出していく。

その時出てくる”回答”に自分が出会うことで、色んな事に気づいていく。そのクセ付けをし習慣になると、意図的に問わなくても、何某かの手段で出力した自分のそれに対し「違和感」が自然と、手に取るように分かるようになる。

出力は無意識に自然になされている。その一旦、この自分から飛び出したことを客観する状態によって、なんで?あぁ、そうなのか…、などが観える。”無意識の見える化”。それを自分が見ることにより書き替えることが可能な状態になる。


今に必要なソレなのか。無意識に続けているその意味の再認識。そうであれば、これにすることができる―――など、「今」という所で古い”私”情報の更新手続きをすることができる。

と、更新されるから考え方や在り方が変化し、選択は変わって行く、替えざるを得なくなるわけで、それは何も手を付けなかった過去の「”私”のカタチ」とは異なるもの。

多様なモノコトに触れることで、いかに”私”という枠が、概念が、しっかりとしたカタチを持って築かれている事を知っていく。突き付けられていく。”見える化”からの要不要・振り分け。自分へ自由を許可していく、その割合を増やしていく。


好き勝手に動くという自由とは意味が違うことは分かると思う(勿論、受け取りは自分なので、その選択も個の選択となるけども)。概念・枠というものによって拘束し続けている”私”を解き放つことでの自由な選択ということ。時代も環境も変わってしまっている中で、まったく変わらない選択を無意識に選び続けているのは「人」というもの、この概念によって。

そのクッキリとした線引きが徐々に解け、元はそんなものと何も繋いでいなかった弱い繋がりの状態にすることで、強烈な折り目を浅くし、他の線とも容易に繋げる状態にする(なる)、というイメージをしている。

これが、かつての強固な古い”私”からでなく、全体(他の線とも繋ぐ)ことへ、カタチがあるともないとも言えないようなその中・状態から”脳に繋いでもらう”ハタラキ。自分の意思も使わない、考えに入らない…そんな脳の状態。


”私”のカタチがあるということは、その型からしか世界は見えないということ。このカタチを変えるから、枠が変わり見え方、切り取られる世界が変わってその世界を見る。

小さな”私”を弱めて、全体へのぺ~っとさせて自然に結ばれたそれを見る。そこには、普段の明晰なアタマの状態では拾えないものがあると思っている。

(頭は人が思うように(何気なくそう考えるほどに)すぐに状態が切り替わったりしない。強い刺激の後には余韻もあるし、ボワ~ンとしている状態からシャキッともならない。現実側に意識をしっかりと戻していく時は、リアルな実感・感覚を使うこと。触るこの感触、見る食べるなど、感覚によってこちらに戻す。入ったら出る(入りっ放しにしない)。場所の往来。リアルは大変重要…)

流れで書いていって、当初に描いた”内側から外の方向を見て”に及びませんでした。書いているうちにコトの世界へかなり寄った、という印象。もう少し「外」の世界と内側の”私”とを被せた書き方のイメージだったので、色を濃くして再度チャレンジします。


家の中で私は暑く感じていない&気温表示もまだいつもよりそんなでもない状態。一匹のワンがパンティングしているので弱くエアコンを入れた。他の子たちも暑さを感じている様子はなく、本当に弱く…それでも低い位置にいると寒さを十分に感じる。

私は長袖、サンルームの暑さが気持ち良い状態。こういう所から、私自身のリズム・バランスの乱れを感じ、急な変化に抵抗する所もある。

今年の夏はまた、大分暑くなる予想が立ってるね…。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!