ニンゲンに感嘆する
必要な時に”氣になる”ように出来ている。そのタイミングは完璧。それも知っているから焦りもなくただ、その時を待つだけ。
「こういう意味でしょ」
この感覚の時、たまにふと、「ちゃんと知ろう」と思って調べてみる事がある。
「え?そんな言葉も知らないの?」という言葉を私は平気で知らない。言葉を知りたいのではなく、「状態になる」事だけが私の目的。
そして調べた時、検索の中から選ぶのは”私”だけども、それも「どれ?」と言う事なく見出しだけで”コレ”と決める。
全て書いてあった。
言葉の説明から、レベル、起こる事、現れる症状、と分かり易く、昔の私なら言葉だけ拾って喜んだかもしれない。いや、理解が出来なかった(肚に落とせない)。もっと言うと、この情報に巡り合えない(合わない)という、今見る”必然”がある。
今は答え合わせ。「それもあった、そうだったんだね…」と読んでいく。「そんな兆候もあるかも…」と、この先の事も念頭に置いておける。
内容的には”覚醒の事”が書いてあるわけだけども、そこに進んでいる時には、そんな事を意識している訳でもなく、外れていなければ「魂として当然の歩み」と言う事でしかない。
言い換えると、改めて特別な事ではなく、超のつく能力でもなくて、誰もが眠らせている「ニンゲンの能力(脳力)」と言う事。
これに「特別感」を感じる様な自分がいるのなら、”磨ける所がまだあるよ”という事だろう、と感じたままに書いてみた。
既に”成された人達”の言葉が具体的だったり、逆にソレを避けたりできるのは、ソコを知っているから。
そして全てのプロセスが視えるので、相手を信頼して見ていられる。不思議な事ではなくて、超えて来ていれば当たり前の”在り方”という事。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
去年あたりから、気になる本を入手しても、初めにザっと目を通したら、そのまま寝かせておくようになった。
昨日は、そのうちの一冊が氣になり、ランダムに目を通した。
対象を集中的に観察することによって、「見えないものを観る力」が高まる。・・・眼で見えないものを脳で観る力。
スピリチュアルなものの見方じゃなく、しっかりとした「脳の使われ方」として事細かに説明がなされています。
そして繋がるようにこの言葉が掲載されていました。
人間は、山々の高さ、海の巨大な波、川の広々した流れ、海洋の広さ、星の軌道には進み寄って感嘆するが、
人間自身に感嘆することは忘れている。
(アウレリウス・アウグスティヌス)
やはり私たちは全く、全然、”ニンゲン”をやりこなせていないのだと、改めて感じた事でした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
冒頭の調べた記事の中に
「何かの考えに頼りがちだったのは”不安で自信がない”ためです」
という文言があった。
これと言って”そんな事は解っている”というような内容と思うけども、私にはこれが、昨朝のワン散歩中に「点から線に」繋がっていくきっかけになっていた。
「対処可能」の時点で、不安はない状態になる。=「安心」を手に入れた状態を確保している。
そして、様々な事に「対処可能」という事が増えれば即ちそれは「自信」に繋がる。この自信は、色々な事へ対応できた事や、未経験でも「知識」と言う形で補ったりする事が出来る(未経験でも、その手立てを押さえておけばいい)。
本来は安心するに適度な「丁度良さ」で充分だったはずのモノ・コトがこの便利な社会の中で、あっという間に超えてしまった。
元の仕組みから考えれば、この「超えた」を続ける限り、「不安で自信がない」を助長する事となり、これがよく言われてきた、「そう思えば思う程」の裏側、潜在的(無意識)部分の強調になっているという事。
だから、”ココ”に留まる事は大切だし、詳細に言うなら、「留まろうとする」事を目的としながらも、忘れているくらいの感じと、やはり行動するという事によって積まれた経験が、自分の芯をどんどん太くする。
軸が太くなり、対処可能な事が多くなる事で、不安になるケースが減り安心していられる時間が多くなる…と、どこまで行っても好循環になる。その上で知識はそれを補強するものとして大切とも思う。
それでも私が殆どのケースで「知識」の大切さを書かないのは、必要な時にそれはちゃんと入るから、と、やっぱり知っているから。
最後はアインシュタインの言葉から。
ある年齢を過ぎたら、読書は精神をクリエイティブな探求から遠ざける。
本をたくさん読み過ぎて、自分自身の脳を使っていない人は、怠惰な思考習慣に陥る。
この世に生きている限り、どれだけ「自分」を使いこなす事が出来るか。誰との比較でもない。自分との対話だものね。