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そうして両方を経験する

多分さ…、
「それは”私”がやっている!」
と強く思う時と、

「動かされるなぁ…」
と感じる時と。

両方あるとしか言いようがないんだな。
そのどちらもを、「そう感じる”状態”」があるから、その言葉を発している。

そしてそれは、「今のはこうだ、今のはこっちだった」みたいなそんな短期のものじゃなくて、幾らかの経過、もっとかなり大きなサイクルが個々に回っていると思う。

”自分”というものの周りをサイクルが回っているのか、サイクルそのものの中にいるから自分がそう感じるのか。

それはいつも、”どちらからも言える位置がある”という事なんだと思う。

・・・ ・・・ ・・・

私はよく、「逆」という言葉を使っているけども。

私から見る何か”それ”というものが、逆に見える・感じるからなんだけど、だけどこれは、逆なだけであって、大きなスパンで見るとどちらもが今、逆に見えているそれの中へ(いずれ)入って行く、と思っている。

それは、外の誰か他者という存在と同じ経験をするわけなんかじゃなく、当然当人においての反転現象がきちんと起きる(ある)というもの。以前に少し触れた、きちんと偏れば反対へ行くように自然とバランスされるというもの。


自身の営みを受け取るのはいつもこの、「自覚上の”私”」という存在で、それが受取ることで営みに対しての”学習”がなされていく―――、この自分が複雑にしたり、ジャマをしなければシンプル。

考えることもでき、意思もあって頼りになるはずのこの自分が、率先して考える事によってまさか自分のジャマをしているとは勿論思わず、一所懸命に考える、そしてその実行、結果を受け取る。

そんな事を結構やって来た私としては、流石に幾らか学ぶわけで、そこから”手放し”を学習した。放ってみる。放り投げたのではなく、そこから力を抜いてみる、という状態に。(いや昔、放るように神にも文句は言いました、えぇ)


”考える”という、自分の中の率先した行動の時、”これは注意かな?”と思うのは、「目の前のことをみてた上で考えているか」という事だろうと、詳細に書くならそうなる。これは同じ「考える」という動作をしているから、一瞬自分自身では見分けがつかない。

この内容は結局、ここの所でも触れている「外の状況から内へ」という事を重ねていっている訳だけど、この循環を私たちはあまり通常に動かしていないもの、だから余計に気づかない。

”頭の中で考えている”状態の殆どは、今までの記憶を再生していることの出力が圧倒的に多い。目の前のことはしっかり意識で収めていながら、それに対してのこと自体は殆ど見ていなくて、脳内の情報を引き出されそれが回っている。


私自身、この数か月にそんな事を集中して経験したため、そちらからのクセ付けを今されている、と感じている。

食洗機の操作の話、新しい灯油ポンプの使い方、病気ワンコのお世話…など、どれも”初め”に戻って考える事が共通していると感じた。慣れないことなどは途中からではなく、一から作り出していく。そうしてそこから習慣という自分の中にパターンが出来上がる。そういう事をやって行く流れは、「外の状況から内へ」の動きの中では当たり前のこととなっている。

それが分かって動作していく事を行うと同時に観えてくるのは、かなり習慣的な動きしかしていなかったという事、つまり無意識で出来ることが多かった=頭を新規に使っていない、と感じることだった。(コワイコワイ(*_*;)

もちろん、今でもそういう事は発見される。
ワンのお世話の仕方は、状況により対応するようにしているから―――。


ケージの中のトイレ場や、別のトイレ場にはシートを敷いてあって、ずっと何年もそうしてきた。それが、とある状況を確認してから、柵になる部分にトイレシートを貼るようにして、シート裏へオシッコが流れてビショビショになる事を防ぐ工夫をした。それによって、オシッコ後の身体を拭くためのタオルの掛け場は、ほんの少しだけズラすことになった。

日中のケージアウト時、ケージ内の様子を見て(していなければ)ワン達をオシッコに誘導する。皆のオシッコが入れ代わり立ち代わりで続くのだけど、、、「身体が前の所に手を伸ばす」、ほんと暫くの間は何度も手をそこへ伸ばし、感触の違うそれを触って、「…違った(笑)」とくり返した。手がいつもの所へ行ってしまう。


同時に確認できたのは、「主人はあまり、動作とズラした動きをしていない」というもの。これは、私の身体の使い方と、主人のそれとは大分違うと言えることだった。

私自身は、動きを途中であまり止めないように切れ目なく動き続けるようなことを意識していた事を少し思い出す。数十年も昔のことで、それくらいしか印象は言えないけども、ソレというものを見ないで、目は別のものを確認しながら別動作は保てるという事を、恐らくスポーツの経験から行っていたのだろうと思う。”いちいち止めない”という私のクセ。

対して主人の動作は、私から見て時に非常に丁寧で、「動きが一つ一つだな」と感じていた。だからゆっくり、丁寧な動作が行われている。それが主人が手に取るタオルの場所を間違えない理由だと思った。


”効率重視の主人”と以前に書いているのだけど、この動きでみると、かなり私の方が”せっかち”な事も伺える。以前に主人が私に言葉にしかけたその印象は、恐らく間違いないのだろうと思う(笑)

車を運転する、店のレジに並ぶ。外で見る主人の動作に私はいつも「何でそんなに”早く・短く”なんだ?」と思うことは多いけど、主人から見れば、家では逆にそんな風に思える場面は多いのかもしれない。

それは。

その”空間”に居ることによってその動きになっているのか。また他者のそれを見る、”自分自身のペースが落ちているから”そう見えるのか。

明らかに普段とスピードが変わっているのを観測することは勿論あるけども、見ている”私”がどこから見ているかに依っても変わる。そして他者の、どの部分を”基本”とみる”私”がいるのか。

そんな多くの目線・軸によって目の前の見ているものの意味は変わるのだと思う。


身体という無意識で動いてくれる所と、この意識で把握している最新の情報と、”意識”はいつもバラバラ。逆に言うと、いつもは揃っている。更に言うと、揃っているという事は、新旧のズレのない状態があるかもしれないという事。

人の、身体の動かし方は違うという事をそこに観たので、書きながら少しおもしろいと感じた。

何か環境・状況が変わった時、「意識はいつも置き去り」と表現して、そのズレに触れてきた。頭の中では理解されていることとその実行、動作はズレていて古いままで行われているそれをこの目で見たから。その度「あっ…」となる事を経て、確認しながらやるようになり、くり返すことでクセ付けされ習慣となって無意識の動作が出来上がる。意識して行うことが一時的に増える為、その期間や量によっては普段より疲労もあるかもしれない。

情報と動きの不一致には、色々なヒントがあるように思う。

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☆うみのみか☆
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