自分てよく変わるモノ
いつも真実ではなく、
自分がどう思ったか。
色んな側面の中の1つに絞った、に過ぎない。
・・・この状態は、○○だったかもしれない、いや、この可能性もある…。様々な可能性が考えられる・・・
ここの所の自分の事を言っているのだけども。
年齢からくる身体的なもの、意識的なもの、色々なバランスが絡んで「特定」する事はできない。それで良いと思っているから、ただやっぱり観察して、出来る対処はして、とやる事は同じ。
どこかで、何か当たり前の『前提』において話している。そうでないと全ての繋がりで書けば、ひたすら続くものだから。
ただ、今・ここ(この状態・状況)というのはいきなり現れたのではないから、ココから線を手繰っていく事は出来る。
”いつもこうなる(傾向)”ならば、過去に原因を見に行っても良い。そうでないと傾向は変わらない…。
生活習慣など、今の自分に合うものに変わって良いし、当然「思考の仕方」も、変わって良い。これが即座に変わらないから、変えていく事に少し力がいるのだけども。
使わなければその回路はまもなく消えて、新しい回路が”自分”となる。
自分と思っている自分は、思考が変わればそれは今までの自分ではなく、新しい回路によって作られたソレが自分となる。
「自分」とは誰だ?
”私”とは何者?
私はあるようでなく、なくてあるもの。
世にある「全て」から、チョイスした塊。
善人なんていないのさ、多くの人にとって”都合が良さげ”だっただけ。良く見える人がいるなら「表れていない部分がある」と知ればいいさ。
という事は。
その逆も成り立つんだよね。悪党に見えるほど、深く、深い所には「善」が埋もれ隠し持っていると…信じたいね。
表が「悪」というのは強烈だから、善が見えづらいけども、理屈としてこちらだけ排除するのは偏りね(*^^*)
善悪は人の概念。(いや、善人でいたいですよ。でもそれは自分が「善人じゃない」と言ってるのと同義でーす(;^ω^))
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「自分」というものは、常にこのカラダと共にあって、考えずともいつものように考える”自分”がいるから、私には「自分」にしか見えないけれど、最近特に我が家のワン達が、違って見える。
「なに、この子たち、動いてる~(*_*) 何、どうしてこんなに小っちゃくて動いてるの?!」
そんな風に見える事が多い。以前にもたまにそんな風な見え方はあったけども、ここの所は動きひとつひとつが何か新鮮で可愛く、いたずらして怒られるピースのその姿を見てもとても愛くるしく…。
「コラッ!ダメでしょ(; ・`д・´)」
ピースを怒っている近くで、主人が口を押えて肩を揺らしている。
「怒られてるのが解ってるピースが可愛いし、全然本気じゃないし(笑)」
「そりゃそうだよ、だって可愛いじゃん( *´艸`)」
一応真剣な表情で”怒って”いるけども、内心は私と目を合わせない様にしているピースの「やべ~、ママ怒ってる~…」って動作がもう可愛くて仕方ない、と感じているから(*^^*)
とにかくよく悪戯するコなんだけど、この子の眼は、ホントにもの凄く素直で、「ザ・純粋」って伝わって来るのがたまらない。
他の子たちの眼差しには、それぞれの”個性”がしっかり乗っているように感じるから、ピースは際立つ。
それは、悪い事をしたから「ダメ」という事とは無関係で、ママの言う事を聞く他の子たちは良い子だけど、それは個の純粋とは明らかに違くて。(素のままに現れ易いシチュエーションはある)
どちらが良い悪いじゃなくて、「そのままか、少し利口になっているか」という違いだけ、と私は感じている。
まぁ、とにかく、ウチの子は可愛いって改めて思ったという話( *´艸`)そして、私も意外に「親ばかってヤツなんだ」と、実感したという話でした。