自覚の自分とそれ以外
テロレロレ.ロレロレ♬
”給油する面倒さより、このタイミングでこの音楽が鳴ることで「悲しく」なる(笑)”
ファンヒーターの灯油が切れる前のお知らせ音なんだけど、今家にいる主人がそう言ったのを聞いてなるほど、と思った。私は今まで「あ~…」と思っただけだけど、主人は”悲しくなる”と言った。閉店前の”蛍の光”みたいな気持ちだと。
面倒さに加えてこの音楽が悲しくて「給油するやる気をなくす」と言った(笑)
外での給油になるので、私は定期的に確認して明るいうちに済ませ、基本的に”やる気”のあるうちに動いておくのだけど。主人の言うそれも分かる。寒い夜なんて、しかも風呂上りだったら「やりたくない」。
夜にはエアコンに切り替えるけども、直火の暖かさは本当に強いね(*^^*)
日曜日。
いつもの買い物へ行き、帰りの運転は私がしたのだけど。
「人(他者)のライン」に入って行くのって、本当に難しいと思った。
主人の運転状態、習慣でそうなっている状態を、「私」という人が始動させる。まったく勝手が違うので、走り出して途中で気づく。
シートの位置は当たり前にズラして合わせていたけども、ミラーは背伸びして見るなどして動かさない。これが私が運転することが「主」という意識になっていれば、すっかり初めに私に合わせてしまうのだけど。
走り出して間もなくサイドミラーが閉じている事に気づき、おっと…とボタンを探すもすぐには分からなくて、だけど探すことに集中するわけにもいかず(笑)私ならミラーをたたまないし、だからいつもそのまま動き出してしまうし、ボタンの位置も把握していない…、やりづらいと思った瞬間だった。
人は完全に自分のラインでコトを行っていて、そんな事も当たり前なんだけど、当たり前だから余計にそんな事にも気づかずにいて、他者のラインに入った時に、”やりづらい”というスムーズでない感じと、その逆の普段は完全に”自分のラインで”動いているのだと思った。
・・・
普段、自分のラインで動いているのだけど、家の中で一つの物を共有して使っている時、「自分の意識がどのように置かれているか」という事によって、呑み込みは変わる。
”他者のもの”など、主を他者に置いている時、それは「そこ」を主としてそこから読み取るようなことをするのだけど、「自分」を主としてしまう状態では、そこに挟まってくる”違い(他者)”として読み取る。
意識の持ち方(置き方)一つで、入力のされ方が変わってしまうということ。さらにこの意識の持ち方自体が、自分によって意識的にやっていることよりきっと無意識でやっていることが多く、コトの見方はそもそも自覚しない自分の状態から始まっているという、とても難しい所から出発している。
書いていて感じたのは、言葉を使ってこの目で言葉を見るから”分かる”のだけど、確かな「所有」が絡んでいるように思えた。
物を実際に持っている(いない)という事より、ソレというモノに対して意識が自分or他者という区分けをしている、自然な”内と外”の区分けがある。自覚する自分の中ではまったくその様な認識をしていないものなのだけど。
”動き”というのは、殆どを無意識で動けるような習慣の塊で、それが反映しているものなので、この自分自身の自覚とは隔たりもあり、ある意味「勝手にそうしている」というものでもある”別もの”。
そういう動きを抱えているのも「この私」なのに、この私にはその別ものが、よく見えていないのが殆どなので「自分事」という認識を持つことはあまりなく、”それ以外のもの”という所で”他者”とすり替わってしまうのかもしれない。
小さなコトの詳細は色々あったと思うのだけど、主人が入院中に家の中のことで、”何か”を思うことがままあって。だけどすぐに「あぁ、私一人だった(笑)」と思い直したことがあって気づくのだけど。
自分の動作の中で、いつもは主人が一緒に生活していたから、「これは主人がやった」という思いを”勝手に”抱くことも出来たのだけど、今ここに居るのは”自分だけ”という事実を何度もみて、「私がやっていたのかも…」という主人への濡れ衣を消すことが出来た(7.2割冗談)。
何かを確かめずに、主人がいる事で”主人のせい”にしていた自分がいたと、その時認めた。人はこんな酷いことも平気でできてしまう(笑うしかない)。
そこに行くまでにはもちろん、「ほら~、そうじゃん」というものがあるから勝手に”そういう事”にしてしまうわけだけど、もちろん全部じゃなかったし、私にもそういう所があるんだと、少し思い直すことが出来た時だった。
そういう事が多いから、今までそうだったから。
殆どはそういう事で収まるかもしれないけども、その事で中には主人にイヤな思いをさせることに繋がったこともあったかもしれない。
こちらの考え方を変えた時に、自分の動き方が実際に変わって行くんだよね。