言葉を離れて進む
既に10日前ほどになるのだと思う。
私は何か、記事を探して自分のノートをめくっていた。
「大体いつ頃かな?」を思い浮かべて調べてはみるものの、ノート(日記とメモ帳、朝メモ)は40冊を超えていて、アタリをつけた近辺に見当たらなければ、それ以上真剣に探す事はない…。「探す必要がない」と捉える。(メモ帳は殆ど記事にしている)
そしてその時、探し物は見つからずに、「あ、そうか…」と替わりの”プレゼント”を受け取って、新たな”展開”が加わっていく。
【霊力】
そこには、いつだか視た「霊力を上げる」という動画の内容を簡単にメモしていた。それを私が選んだ理由は、自分の考えと近かった事、その方(男性)のアカシックへの検索の仕方(特に目の動き)を見ていると、「確実に探しに行っている」と、私が感じたから。
そう感じた理由は簡潔に「浮ついていない」と、信頼して良いと捉えた事が前提で、あるリーディング内容では、
「殆どの場合”潜在意識”をその様に言っていて、霊力でない。そこを上げるには、潜在意識を剥ぐこと…」
この言葉をメモしていた。
潜在意識=霊(能)力、と捉える考えがある事は解っているので、ここはこのまま私の考え方のまま進みます。
今迄、自分の中の中々簡単に観える事のなかった”潜在意識”、を解かる事によって、「視えた」とそこに留まってはつまんないな、と。
そうか、その中に「霊力」というものがあるならば、そこへ行ってみたい、その時その様に考えた。潜在意識を見つけていつまでも喜んでいる場合じゃない(笑)、少しずつでもその皮をまた剥いでいくんだ…、そう思った。
以前の、今よりも無知だった私が捉える「霊力」というものとは、言葉は同じでも、全く位置づけが違う。
昔の、それこそ、「その言葉の周辺についたエピソード、”特別感・凄い”」でなはく、真剣に探究してみたいそれへ、ただ今までと同じように進んでみる。
その想いだけ。
そこで私は自分に”スイッチ”を入れたことになる。そうする事でまた、意識がそれらの事を探し、自ら色々な事に気付く経験を用意されて、また少し進捗して肚落ちする、という流れ。
肚落ちしてから、数をこなして血肉にしていく繰り返し。
その中でまた、最初の印象と少し違うものがあれば調整したり修正を重ねて自分を練り上げる。外枠はもう存在させた。少しずつ意識を選り分けてみる。
4/8朝メモ
気づき、衝撃、は潜っていたものが上がった事によるもの。
潜在から更に奥は、静そのもの。
「潜ーー奥」の移動はシームレスの衝撃なし。ただ非常に濃い。
心への衝撃はないものの、霊力ともどこの部分が”反応”しているのか、を見極める事も、審神者(サニワ)と知る。
静かで濃い集中状態へ。
今迄は、”具体”ソレ自体を見極めようとしたけども、「どこからのものという”反応”」を利用しての審神者もできると知る。
「反応」の話をしたから、「全体の」反応の視方、を上げてもらった。
『反応する場所が分からない』というのが、かえってソレを決定させてくれる。
現実世界に於いての意味は、偏りなく、どこの部分に当ててみても、自分から反応が出ない、という事。
現実世界ーーあちら(潜在・精神)世界ーー霊
での連なり全体で見たら、こちら側でない、既知外、という事が言えてくる。
忘れた”既知”も含む。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
朝メモは、夢、起き掛け、ヌボータイムの状態でメモするもので、没頭しないと、この意味を書いた私も分からない部分が出てきたりするのだけども、これは鉄則で、”こちら側”でいじらない(修正しない)という事を決めている為、上記はそのままに。
別途少し説明するなら、従来に使われていた審神者という言葉の意味は、そのままを軸に持ちながら、この現実世界でも対象に対して「それはどういう事か」など、自分できちんと考える事を、私は”サニワしている”と考える。
例の、「言葉の持つ”特別”」を剥いで、そのコアなものを視ていこうとする事は、”世界”に関係なく、「やっている事は同じだろう?」と思いながら、ガッチリ足元はピン留めしながら、進入して行こう、そんな風に思っている。
冒頭の「霊力」という言葉に戻ると。
そこは、近年に漂う軽いものという印象はなく、不思議なものでもなく。人の持つ本来へ少しまた近づいていく、ということ。
そうある事が凄くもなく、特別でもなく、また誰でもそうであるとも言うつもりもなく。
「精神世界」から入って行く事だけがその道ではなく、ただ自分を見つめ続けた結果の行先にそこが見えてきた、というもの。
この説明は至極当然なのだけど、「入り口」を絞って拘れば、その縛りを受ける事になり、”どこから”というものには正しさがない。けれど、目指していく所が決まっていれば、入り口は違くとも重なり合う道はいくつもある、と感じている。
追)動画で視たその方はプロであり、私は素人なのだけど、「探しに行っている」という表現をするのは当然、私がそれを取り入れていいかどうかの”サニワ”であり、自分がソレに対し、「うん」と言うかどうか、という判断になっています。
一般的に言われている雰囲気の、アカシックへの検索とは違い、あくまでも私が視た「ズバリ系」の方。非常に知識の情報量が多い事が一目でした。
こうして自然と同じものでも”入口”は分かれるのだと思います。