確認、かくにん。。
(メモ)
多分だなぁ…
受け容れる(入れる)なんて言葉になって世を歩くようになっているけども。
そこにその状態が確かにあるけれど、言葉に”見える化”された事によって、もの凄く軽いものにされたんだな。だからそれをしようとする、”起こる事を受け容れる”、受け容れなくちゃというように。
感覚としてはまったく違うものだね。そう説明される状態は、そうある・あった事が先で、言葉で表現する感覚がそこにはまったくない。”そのもの”になっている。言葉にする事によってどんどん表面に上がるようになる。重さのあるものを軽くしてしまう、人は言葉を理解しようとするから。
・・・
最近よく”身体”の話をしているけども、例えば若いうちは無意識でこの身体が動いてくれていて、何かを特に注意したり気にする事もなくごく自然に身体を使う日々なわけだけど、中年ごろからアチやコチが「あれ、あれれ…?」みたいな事が起きてくると、少しずつ自分の身体に意識を向けざるを得なくなり。さらに進めればその後には、この思い*と、身体とは一致しているものじゃない、という事を薄々と感じだす。
もう少し手前の感覚で言うと、子どもの運動会で走る保護者。普通に走れる・動けると思っているけども、普段使っていない所は少しずつ衰えていて、急に動く、対応するという事が意外とできないという事がある。その時動けない・動かなくなっている自身の身体を少し理解する。
どんどん頭を使うようになって、それで済むようになって。それは便利なことこの上ないのだけども、そうする事で何かが省かれていることをすっかり忘れてしまう。身体の動きからの情報がめっきり頭に行かなくなっていることが多く、”動いている”と思っているその範囲自体がすでに決まった範囲で、狭くなっている事は、私も散々経験してきている。
頭で詳細に理解している事と、それがその様に実行して行けるかどうかは全く別で。それでも周囲といつも共にあり”全体”として一つの動きであるならそれも問題はないのだけども、状況により”自分が”やらなければならない事もあるわけで。
分からない事を分からないまま動いていくという全くの新規事や、分かっているその事の消化(実践)など同じラインで考えがちなこれらは、頭の中で繋いでいるだけで、まったくバラバラに存在するもの。一体となっているものであれば、そこにズレ・不一致の隙間があるわけがない。
ズレている事がほとんどで、できない事だって多い。だから脳内の事と実行とで内の世界と外の世界との貼り合わせを行う、というイメージを持っている。その状態とを”結ぶ”ことで、情報が更新する。
言葉は多くを短縮している表現だと思っている。その”表現”の元になっている状態があるわけで、この”状態”をすっ飛ばして言葉で表現される世界だけでは限界が早い、という事とも思っている。
健康的な人は、やはりよく動いているし、動いているから健康的なのかもしれないし。頭だけでなく身体もしっかりと動かしていることでバランスがとられている。
「いつまでも当たり前に動ける(できる)」と思えるのは、普段から動いている人のそれと、記憶の声の再生を聞いているのとでは全く異なる世界の話だと思っている。
この思い※
頭にある記憶。今まで普通に意識する事なく動けていたから。記憶は新しい情報を加えないと古いまま。逆から言うと、身体からの情報が”入っていない”から、頭で再生が回ると言える。実際の身体の動きとの差が開き、動けない事を身を以って体験し、情報が新しくなる。(そこから先は、どうするかを考えて行くことになる)
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「ハハハ…、しっかりおばさん走りだね(^-^;」
もう大分前に主人も一緒のみんなでワン散歩時、ウンチの処理で皆を後から追う形となり小走りで近づいたのだけど、主人がそう言った。
姿は見えないけど、”走れない”ことは十分分かっていて、「こんなに動けなくなるんだ」という事は以前から自覚があり、指摘に笑った。身体の動き方がスムーズでない、ギクシャクしているのが確実に分かる、膝が硬いなど、もうとにかく滑らかでない。
動かさない所はしっかりと錆びる。若い頃には気にならなかった、無意識でいられたものが意識に上がる。それによって現在の自分の身体の状態を知る。それまでは「動ける」と思ったまま。不一致な状態がある事をしっかりと認識する。
⦅サイドストーリー⦆
私は、Bに転院日当日に必要な書類として指定されているものがあった。それは勤務先に書いて自宅へ送ってもらえることで決着していて、昨日受け取っていた。
折りたたまれ、クリップで留められた2つの書類。一つはAに行くなら持って行って欲しいとの事で追加で同封、逆に私が依頼されたもの。分かりやすいようにそれぞれに付箋が貼ってある。
「それぞれ」をその日の動きに必要な物として私の中で軽く振り分けておいた。
天の助けか、神が囁いたか、いきなりふとBへの書類が気になりクリップ留めの中身を開いた…お、お、おーーい!
様式(番号)が全然違う、様式名からも違うことだけは分かり、勤務先へ連絡。中身の話をすると…どうやら付箋のテレコ。もう、ホントに驚いた。木曜、金曜とズッコケる所だった。(私の中で最終的な“保険”も用意はしているけども笑)
私、本当にラッキーな人だな(*^^*)
(別の目線でも考えたけども…)
(今回みたいなケース)私は他者(他所)が用意し、中が見れるとしても広げて見たりしないという前提を持っているから「見てみたら」となったけども、逆にきっちりしてる人は、「必要な書類」という所に自分のビスがあり、中身も確認するんだろうと。そちらの方が確実だね。
それを行うことのデメリットもあるもので、「セットされたものはヤタラに触らない」ということでもある。もしかしたら、自分が混ぜてしまう可能性もなきにしも…だから。相手は一応”担当者”として業務をこなしている人なので…。
もっと詳細には、「逆」ならばもう一方の書類が、その様式番号であって良いはずだけど、私が依頼した様式でない為にこれは確認した。
「それは社労士に言われてやってあるので大丈夫です…」
書類というのは本当に色々な種類があって、難しかったりかなり面倒だったり。現に、病院で指定されたものと社労士が言うそれの番号は違うのだから(笑)