意識を見続けてきて…
「シンクロの中にいる」
と、散々書いてきているけども、その空間・質(?)というのか、ソレは変わる、と言った感触を持つ。
恐らくその意味は、この「現実世界」にも、しっかりと”意識”を置いている事により、「実感」というその一致が、時に「なるほど、そうなのね」と言う、直近の誘導だったり、「これに乗れば良いのか」という様な渡りに船であったりと、こちら側(現実)に意識も置いているせいなのか、「確信」としてしか捉えない。
これは、意識がまだ引っ込んだ状態(表現はちとアレだけど)で驚く、という様な感覚は全くなく、単なる「手段」としてそれが”そこにある”状態を、ただ伝って行けば良い、という感じ。
完全な”無意識側”の導き、こちら側はアレコレ考える事なく現実側での”実行”。意識が保たれながら、無意識の運んでくるそれらに乗っていく…、そんな表現が出来るように思った。
メモ帳からツラツラ行きます。
2/13
誰かが(又は何かが)。
何かを表現している時。
それは「私」という人にとっては不都合かもしれない、不愉快かもしれない、気持ち悪いかも知れない・・・。
そう感じてしまうのは仕方ない。
それは誰かという存在と、私という存在がある事だから。
”同じ”にはならない、だから”違う”と言う風にこの目に見える。
例えば自分が、100の要素から成る人で、誰かはその内3しか私と同じ部分が見つからないならば、もうそれは大分”違うモノ”と言う存在になる。
自分と同じ要素100はまずないのだから、当たり前に持つ前提を変えないと、見え方は絶対に変わらない事だね。
”同じ”という事は、結構な「引っ掛け問題」のようで、”違う”という事は、「チャンス」という風に私には視える。
とても違う、という事は非常に分かり易い状態で、ソレの対象を客観しやすくなるから。
そしてその客観をする時、文字通り”客観視”しなければならなくて、「私」という要素を通してはならない、のだけども。
(細かい事を書くとズレるから大分割愛)
人を超えて視る、というのか。
ただ、”表への現れ”として見るという事になる。それと言う何かに対して、「私」という要素の、何か一部が対応した訳で、私という要素の中に対応物がなければ、”反応”というものはない、訳だから。
他という相手を”ただ見る”という事は、それに対応する「私」からも離れなければならなくて、それはイコール。
私を抜く(我を抜く)という行いの本質は、表現の意味よりももっと深く、そうしなければ他というモノさえ、何も見えて来ないという事。
そんな事を思いメモ。
コトバの「意味」へのリンクが弱まっている事に気づく。
・・・
最近にも、『私も他(者)も同じ』という事を書いていて、このメモは全く”逆”の事を書いているのだけども、決して矛盾している訳ではなくて。
”矛盾”の感覚が出る時(感じる時)というのは、ある一点からの視点、「思考するアタマ」で捉えている時、と現時点では私は感じている。
過去に、意識・無意識(顕在・潜在)の事で考え続けた時があった。間もなく両方が「私」なのだから、”どちらがナンチャラ”とか拘って考える必要もない、という丸抱えを経て、引き続き観察を行う中で「自分に居場所」の見方が強まった。
意識を置いている場所(脳内)によって、その感覚、”出力”が変わってしまう、だから考えるアタマだけではこんがらがる、矛盾。簡単にはその様に捉えている。
メモの話に戻すと、小さな意識(小我的考え)の範囲で考えている時、自・他はしっかりと認識されて当然なので、その出力・反応がしっかりと現れる。
このメモは”自分の反応”をしっかりと感じている事がメインに書かれているので、小さな意識の表現がなされている前半。
途中からの”説明”は、大きな意識(大我的)的な在り方の「説明」に流れて行っている。
「説明」と強調して書くのは、その状態になって書いているものではないから。あくまでもそこへ切り替わる(切り替える)考え方を示しているに過ぎない書き方をしているもの、でした。
『私も他(者)も同じ』
という内容で書いているメモの時、その状態は。
”小さな意識”から離れた状態にある時、そう感じるままに書いている事なので、それもまた意識の状態としては”正しく”。
考えるアタマでそれを説明するならば、「意識を、自他がないその状態まで上げてしまっている」という事になる。
それをやろうとしてやっている事ではないので、そのまま出てきた”メモ”は、いつも自分の状態を現わすものとして、活用ができる大切な「自分説明書」でもある。
この感覚、状態を文字で意味で捉えたならば、それは想像であるし、「考えるアタマ」の範囲の事なので、矛盾という事になる、という風に私は考えている。
・・・ ・・・ ・・・
他のメモも羅列で行く予定が、この一つで終わってしまいました(*^^*)
今日はそれで良いようです。
言葉に触れる、という事は。
”現実的”という事になる。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!