見出し画像

どちらが正かは知らぬけど→←

私の中の「シンクロ」という現象についての解釈を、パズルのピースをハメて行くように、ポツポツと気づいた事を今までに幾度となく書いてきている。

「これ」という一つの説明で終わることはなく、いつまでもそんな事を視える限り続けていくのかな・・・。

入って行く扉が違うから。


前振りしたは良いんだけど。

メモしている様々を一つに繋げるのが難しいので、メモそのままに補足していきます。

8/5メモ

「”自分に起き続けているもの”の流れ」を改めて。
確かこの時は、”違うこと”を思って書いている。

だけど今朝、いや数日、少し引っかかり始めていた”シンクロ解釈”が、再び目にした今の世界から観方を替えている。

少し、「自分側へ近くなった」という事だ。

・・・

朝、目にした動画をきっかけに、「探しているメモ」を見つける為、少し前のメモ(ノート)へ戻っていた。

もうどこかでnoteに移した印の✖印で消された所を読み返していた。通常は消された所を読み返すことはあまりないのだけど、その時の文言を受けて上記を書いている。

そしてこれがまた、後に聴いた久々のラジオでその「流れ」を確認する事でしっかりとハマった。


8/5メモ

視える時に見えてくる。
7/19メモがあって、今朝目にした動画があって。

スピードこそ全く違えど、共通がすぐに見つかった。

しなやか(さ)。
この凄さ。
今日は鳥肌までは行かずとも、身が少し震えるような感じがした。

少し話を広げて―――。

私は触ったりはできないけども、蛇は好き。恐いとも思うけども、好き。

それはその、しなやか過ぎる動き、そこに魅力を感じている事は分かっている。

もう大分前の事だけども、大型トレーラーが両車線を止める形で頭を振りながら胴体部分を大きくくねらせ、見事に駐車するのを目の前で見て、最高に感動した事がある。

そこに重ねて見たのは龍、大蛇だった。

ドライバーのカッコよさ、その時生き物だったトレーラー。

とっても滑らかなハンドル捌きに従う、しなやかな龍とのコンビネーションだった。

本能的に、かどうかは分からない。

だけどしなやかな”その動き”を、この頭では恐怖を感じながらも、完全に魅せられている。

嫌いになれないモノが、そこにあるのだと思った。

・・・

このメモ後、更に”一筆書き”が目に飛び込んで来て、「しなやか」と更に繋がって納得していた。

7/19メモは、メモ自体は具体的に書いていない、タイトル「”ある日”の扉」と書いたメモ。

肯定。どちらも”肯定の扉”と書いてある。

そして同じくこの日のメモに。

”しなやか”という事の凄さを目の当たりにした。人の動きが太極拳の様にスローモーションになっていた。

目を疑った。すごい!しなやか。

としてある。それだけ普通の動きがしなやか過ぎてスローだった。

この自覚側の”自分”から見る目線から、脳側のもう一つの自分から見せられる目線に変わっている事が多くなっている。


8/5メモ (”流れ”を補足する様に書いている)

7/19「”ある日”の扉」メモ内の、「肯定。どちらも肯定の扉」という事を受けて後のメモへ繋がり、今朝のメモへと繋がっている。

「みえる時」というのは、よく見える。

”状態”を観て言葉をつけていると、全く同じ言葉を使っている事が多々ある。

脳に浮かぶ(視える)それに言葉をつけると、シンプルな言葉しかあまりないから。

そしてこの矢印の向きが、アチコチに揺れながら、風のように向きを変えながら緩やかに拾っていく流れ、でき事。

全部、表の世界の出来事は違う。だけど、共通してくる。

括れる”流れ”が、しっかり見えてくる。合わせるように情報はきちんと届いている。

・・・ ・・・ ・・・

今までにも表現としてよく使っている「情報は(タイミングできちんと)届く」というこれは。

「情報」という全てがあるその空間から、現在の”コト”に合っているものへのフォーカスがなされている状態だから、と言える。

前出の「自覚側の自分」でなく、「脳側の自分」という本来全てが見えている(ある)所が見つけてくれているソレを、こちらの自分が「手にするだけ」という様な表現ができる。

思考するアタマで”考えて”しまうと、

・合わせるように情報はきちんと届く
・タイミングできちんと届く

という表現は、とても不思議の域に見えてしまうのだけども、脳側の働きと歩調を合わせるような事をしていると、これは「当たり前」と捉える事はできる…、感情的には「オーーッ!」と思う事は勿論あるけども。

・・・ ・・・ ・・・

「振り返る」という行いは、私達が考えている以上に、脳の働き方は普段のそれと異なると思っている。

12345…と続く(ように捉えている)時系列の一部、例えば「3」の近辺に戻ってみる、という行いは、巻き戻して「そこ」を見ているようで、実は無意識にその流れを「正」とする働きの中にあるように感じる。(この時は、その”3”そのものの中に入ってしまうからと思う)

私は以前も何度も、脳内を4つの矢印で表現しているのだけども(→ ← 蛇行矢印 ➡)、この2番目の”←”は、逆向きではなくて、同じく向きは「→」なんじゃないか?という風に上記の表現では言っている。


そもそも脳の中に”矢印”が存在するわけではなく、感じ取るものを表現すると「そう」というものに記号を付けているのだけども、「振り返る」という言葉の縛りから抜け出ると、「→」で十分良いんじゃないか、という風に感じた。(ここでは向きだけの話)

それは別の見方を絡ませて書くと、やはり「肯定」。

自分の中に現れてくるもの、見えてくるものが”逆向き”がなくなり(少なくなり)、一方向しか(→)顕れている様に見えない、という様なこと。

自分の中の”状態”が変わるだけで、解釈は向きまでも変わってしまう。「記憶の呼び出し(再生)」から、「考える事での生み出し」へ。元の出来事を振り返っているようで、そこには「別のストーリーの立ち上げ」がなされている。


背後(背景側)には、そこに具体的な事象はないので、上記の殆どが具体的なコトの説明として書かれていない。殆どが脳内で感じているモノ(コト)を、こうして現す為に言葉がついている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!