色々な共鳴
黙っているというのは。
まったく分からないからそうである事と、無関心だから応じないのと。
そして。
もうそこは既に通過しているので、”知っているから”言わないのと…ある。
「黙っている」場面から見たら、どれかなんて分からない。特に最後の人たちは余計に目立たないんじゃないか?
ずっと、そんな人達を見てきたから、「よく知っているな…」という感想がこちらに湧く。
そしてその行いは。
「決して、私の意欲を削がないようにする為に、自分で見つけて行ける様に邪魔しない見守り」
私は、そう感じて間違えながらも少しずつ進んできたと思っている。
そこに「相手はそんな事を思っても考えてもいない」。それが事実かどうかさえも関係ない。
私が、そう感じて捉えた。
それで十分。
では、懲りずに”シンクロ”していきます(*^^*)
タイミング的に一応は、「自分が投げたことによるシンクロ」を前提として書いて来ていたのだけども、これの全く「逆」のタイミングのシンクロもあって。
これも過去には触れてはいるのだけども、これはまぁとにかく「言葉がつかない」説明ができないという”感覚”だけが強いものがある。
(10/19メモ)
もう1つのシンクロのケース。
こちらは言葉がつかない。
これが”答え”になってしまう。
説明ができない”感覚”だけがあり、だけどそれを疑うこともせず、タイミングだけを掴むということか。
”本能的にそれを採用してもいい”と知っているかのように受け取る。
そう、内側は知っているから。
その感覚だけを、この表側の自分は採用する。こういう入り方はやっぱり驚く。
自分の付箋メモの「乗ってけ」を読んだ後、ふとXを見るとそこに「乗り切った」と届く。やはりこれは”おっと…”と驚く。それを”ピント合わせの速さ”として捉えるようになった。驚きの反応から何度も体験を重ね続けてやっと習慣になっていく…。機能をそこに見ている。
・・・
何度もこういう事も繰り返しているからその様に捉えるようになっているのだけども、脳の働きとしては確かに自分の”出力”を瞬時に外に見つけることが出来る、という風に”まともな”説明はできるのだけども。
この事の本質的なしっくりくる説明は全くできていないと思う部分が確実に残っている。まだ不確かなままで、それを違う所から迫っていることを幾つかメモしているのだけども…。
(10/20メモ)
シンクロ―――。
もっとシンプルに言ってしまうと。
全部観ているのは「あなた(私の意)」だからでしょ?
ということ。
私が観て、その解釈ができるのは「私」だし、主語が違っても抽象化して”そう捉えた”のは私だから。
(10/19メモ)
(私)目線が中心。
自分と他者をしっかりと分けない目線、”境界のゆるみ”を持ちつつ、それでも「私」という観測者は、ここに存在しているため、それを主とした表現がなされている。
(”境界のゆるみ”は、この利点だけではなく、全ての物事に欠点があるのと同じで、自・他をしっかり分けて考えなければいけない状態はある)
私という目線が中心で良いと考える理由は、主(語)がきちんと「自分にある」という事が判るから。何かに影響されるのではなく、こちらからの能動へ。そしてどちらからともなく、押しも押されもせぬ軽やかなピンポン状態。
・・・
メモを通して言いたいのは、この様なやり取り=観測を通して、自分と他者という一番近い所から、どんどん離れていき、「コト」へ目線が映っているということ。
目線が移るという表現を他に換えるなら・・・。
”主語”が消えるとか、”わたくし”を抜くとか(?)それをやろうとしているのではなく、その様になってしまう(状態がある)。可能な限りの「わたくし」が状態から省かれ、だけど観測者がいる限り完全に抜かれることはなく。コトから始まる目線、「一緒」として目に映る…一本線。
”全体(自他の区別なし)”を意識しようとしてそうした訳じゃない、”その状態”にある時、観え方は溶け込んだ”そう”とでしかなく、こういうもう殆ど「何言ってるかわかんない」状態でヒョーゲンされる時、”その部分”のものとシンクロしている事が多いというのも後の実感としてある。
表の意識上ではしっかりと理解が難しい”無意識状態の一致”がシンクロなのだから、「分かんない」状態だけが引き合う(寄せ合う)ような共振。人の感覚として”距離”を把握してしまうので、本当に不思議なのだけども、実際には「そこに距離がある」と解釈しているこの意識の方が「?」かもしれないものなので。
偶然の一致という名の、”必然のできごと”シンクロ。
・・・ ・・・ ・・・
ちょっと途中だけど、切り替えます。
(シンクロ解釈の弊害も含めた周辺話は、また明日書きます)
上記まで書いてきて思うのは。これで3日目、改めて感じたのは。
書こうとして書けるものは、この現実世界から集められる”事象”のものが多いかも知れないということ。
よくある「氷山の図」。ほんの一部が顕在・大半が潜在というあれだけども。表側から”引っ張ってくる”行いの時、そこに執着してしまうと(潜在部分からの)引き出しが難しく、(何かを)ヒョーゲンさせたことによってそれに付いて引っ張り出されてくるのが自然(抵抗が少ない)。
そしてその”付いてきた”ものがこの世界にヒョーゲンされることによって、また他が”付いて来て”…と、引き出されるものは増えていくのだけども、それが繰り返される程に、「遠のく」という自覚側の意識は強まる。
意識がしっかりしたままで、潜在部分から意図的に引き出せることは「ない」という事が言えそうに思う。(”潜在”部分なのだから、そうであって不思議でないけども)
(古くからの人で)互いに本当に意識上は意識することなくあるのに、驚くほどシンクロし続ける方がいるけども。それぞれが書く内容も全く接点のないものなのだけども。
それでも確実な”同期”をそこに観るというのは、そこに私たち人間の「意識」というのは全く関係なくて、寧ろ無視する程の方が「無意識は合う」という様なシンクロとなっている(ように思う)。
それと言うのは、極力省いた人間側の余計な力のない状態ならば、自然とそれは起こるという事を見せてくれている様に感じている。
そこには「自・他」で行われる”一本線”も全く感じない。だけど「同じなんだよなぁ…」という感想だけが確実にある。
「シンクロ」と一言で言っても、入り方や感じる場所(顕在・潜在)などにも違いがあり、説明は本当に難しいと思った。