他を活用する
ニコルの事やバズのあれから…と、ワン達と私の関係の事をずっと書きたいと思いつつ、これは「思考」しながら書く必要があるのでついつい、後回し。短時間ではちょっとできない類…私にとって。
だから簡単なメモとかをupしているのだけども(*^^*)
箇条書きメモでいくつか書きたいと思う事を記してあるのだけども、そこからまた枝分かれするからまた触れたい事は増えて。
ただ今日は、一昨日のメモから昨日ツラツラと書いていたこと(経験談)を、あまり整えずに書いていきます。
この”整えない意味”は、【流れ】を書きたいから。(←これ今回の目的)
「日常の流れ」は緩やかで自然すぎで。でもそこから全てが始まっている、とも言える。この意識した瞬間を起点にするならばそういう表現になる。
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そうして置いて来てしまった”心”の回収を、後にする事になったり、それに付いていくモノがダンゴになっていって、元が解らなくなったりする―――。心の優先、結局そこを整える事になるから。(一昨日メモ)
(自分の頭の中で繋がっているから唐突に本題に入ってしまっているけども、ネット社会での事を書いている。自分の「思考にハマってしまった時」の経緯~抜け出しの流れを書いている。しかも、元々の書きたかった内容でなく、流れで書いている(笑)↓↓↓)
時を変えて”両方”を感じられるのが分かる。そして「どちらにもとれる」を繰り返し、それを自分に浴びせる事で”自分”が程よく解れていく。
「外で言っているから」に従う限りそれは誰か、何かの言いなり。記憶でコピーが上手な人、脳の使い方でコピーしてしまう人といる。強制はされなくても、自分よりも影響力のある(と思われる)人に従うのが人だから。
そんなものは思い込みで関係なく、自分で自分を見つける為に、外側を活用する。どんな内容でも良い、様々な人たちの考えを目にして、「自分がどう思うか(=感じたのか)」を拾う。そこに自分の反応が出ているから。
”自分の判断”でしか決められない所(経過)がある。
・ただのシンクロ→たまにではなくいつもいつも起こる、広範囲に。であれば、通常は「自分」と結びつけて当然。
・(↑)という事が証明できない→直接会話している訳じゃないから。現象的にはただの偶然のタイミング(かもしれない)。
これを判断できるのは、このシチュエーションで”自分”だけ。その現象、起きてる状況を自分が判断(見破る)するしかなく、それをしないままでいるからそこを起点にモノコトを考え、”その流れ”を作る事になる。
その経過を振り切って来ているのだけども、振り切るまでの状態がキツイ※。判らないから決められない、迷う、どっちだ?とグルグル。このループ内に長くいるとかなりキツイ。「決める必要がない、どちらでも」という普段なら執着しないモノコトに、磁石のように引っ付いてしまう。
※どちらか、どちらも「あり」だから、分からないはある。そう解ってもグルグルする時がある。「自己探求」という欲を捨てれば簡単に済む話なのに、強烈な流れに吞まれてしまっている状態。
その環境から離れる事が一番手っ取り早く、その思考・判断を廻さないようにする事、一度リセット。そして期間を置いてまた、「その中に入ってみる」。これを何度か繰り返す。
ここを繰り返さないと破れない。本当に抜けることが出来ない。避けたままでは避難しただけ。
読み手は全て自身に当てはめる事もできるし、全部自分じゃない”他人事”かも知れない…と捉える事が出来る、同じ事。
クルックルッと自分事にしたり、他人事にしたり、この動きをスムーズにする。自分が思った事(最初の反応)の「反対」側に切り替える事で、クセで見る事が出来なかった”傾き”が調えられる。だから、「初めの反応」を変えてしまうと余計に分からなくなる、難しくなる。
反応は自分の素直な(その時の自分の)現われ。そこを”起点”にし、「クルッ」を繰り返していく。いつもどんな状態でも「自分の在り方・心」を否定する事なく、起点をヒントに調え続ける事で、「自分」というモノも自然と解れていく。気づかぬうちに少しずつ柔軟性を持った思考・心・在り方・観方に変わっている、と後に自分で気づく。
グルグルと繋がってしまう”思考”、起点から当たり前に走ってしまう思考をブッタ切る。任せれば繋いで自然に流れる線を、今度は分断させる作業、連鎖を止める。経験が増えれば色んな事に頭を使い、学習し、使い慣れた思考・クセがある。それを逆に「止めて」いく。
このひと月、私はクダラナイ思考に入った時、それを焼き切ったのは不動明王さん(真言)。炎の強いイメージと、力づくの意志の強さで対処し、整え(癒し系)は、穏やかな脳波状態でコントロール。
という簡単な区別でやって来た、と言ってもいずれも1度ずつ。私は素人なので、詳しい事も知らないけども、「自分に必要な事」というのはやはり、自分は知っている、と重ね重ね感じている。
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と、整えるつもりはなくても、書いていれば結局、前後を少し合わせたりして、いくらか体裁を整えている。
人は無意識に行っている事のいかに多い事か。
書く程にどんどん蛇足になっていくけども、昨日のnoteの続き、補足になっているコレは、何度も書くけど「流れ」を観てもらう為。
人が「心」を優先にする、という事は、その起こる事(受け取るもの)の責任は全て自分という事以外にない状態、という事ね。それによって寄せて来るモノコトに対しては、〇✖なしの「結果」の受け取り。人間にとって”望みか拒み”か好き嫌いはあるかもしれないけれど。
それを幾度も繰り返していると、その体験を通して「こういう事か…」と漸く納得できる(手応えがある)というのが、昨日の記事内の「ソレ」に辿り着く、という所。要は、アタマでは解っている「それは分かるけど…」が、頭でなくしっかりと肚に落ちてくるから、そうすると自分の肚はすでに以前の肚とは違うものになる、という事。
これでさらさら(更々)、改心ムリなく入れ替わる、となります(*^^*)