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持っていてもいなくても良い

そうそう
これを補足しておきたかった。

私は古い自分の在り方を「矯正した」という事を、ちょこっとFacebookで書いたのだけど。

神経質な傾向、潔癖っぽい所…。私はそれを”直してきた”と、ずっと前にもその様に書いたことがあるのだけども。

確かに一面ではそうしてきた。それは「私にとっても困る動作として認識している所があったから」であって、私は自分が何か困るとか、生活に支障があるなどがなければ、別に問題なしという考えではあるので、その事を自分の中から完全に排除したわけではない、ということ。


何かに対して「細かい」というのは、例えば私と主人とで見ても、私が主人の行いに対して「え?」と思う事もあるし、また逆に私のそれを「細けえなあ」と主人が思う事はあるだろうし。それは個人の拘る所でもあるので、他者云々でなく、自分にしっかりと認めている(許している)のであれば、他者のそれもまた同じ事だと見えやすい。

潔癖気味な在り方は、母から育てられたからという様に私は思っているけども、それをイヤな事と思ったことはないし、行い自体は今でも基本になっている事は多い。

”母から”としているけども、父の行いを観た時に「神経質」と感じたことは沢山あって、私のそれは父の方の家系かな?と思ったこともある。正直今はどちらでも良くて、今この私にとって不要なものであれば私の中から排除してもいい―――

そんな所なんだけど。


例えば先日の、ニコルのエピソードの様なことがあった時、私にもっと大雑把な、極端にはガサツ面もあれば、それはそもそも何ともない事とやり過ごせるのだろうけども、それが自分の中の”不快なこと”という認識と一体となってしまっている者にとっては、目にする事で嫌悪が出る時もあるという、結構深い部分の話でもある。

何でも、外にあるその状態を受け容れることができれば、それはいつでも何も問題など生まれない。自分の外側に”排除”してあるものは、それをこの目に映すことにも抵抗(反応)が出るというもの。

そういう事から、私が自分の中に”入れる”ことができたのが見えた時だったので、私は嬉しかった、というものだった。頭で理解することと、自分の在り方としてそうある事とでは、一致していないことは多いというのはそういう事(でもある)。


”私の中に入れる”でも、”私が外に出ている”でも、状況は同じこと。分離されない状態がそこにある、ということ。

何度もくり返し、それが自分のクセ付け、パターンとなり在り方として動作するわけだけど、その事を分解していった時に、それは必要ないと分かったとしても、受け容れられないというのは、頭(思考)と動作(意識)には差があるから。

その私の中に「ある」ことをゼロにしたというのでなく※、記憶、その傾向は持っているとしながらも、だから、その入り口(近辺)になった時に、緩める=そうであってもいいし、またそうでなくてもいい。つまり「どちらでも良い」ことを自分に許している(状態がある)。


どちらかに絞るという事は、そうでない自分がこの中にある時、必ず「そうしなければならない・できなかった」などという思いを作ることになる。どういう時に、どんなシーンで「起こりやすいか」という事は、自分を観てきて分かるので、その場面では広い範囲で動ける状態を選択するようにする。過去の私が出ても構わない、今こう思う私が勝っても構わない…どちらも「自分を肯定した」状態。

大分奥側の話になっているけども、結局は自分の中の”対立”をどう平らにするか、という事と思うので。どの選択をしても自分が決め、それはこの自分自身のことを受け容れている(肯定)という事であって、自分の行いをスムーズにし、動きへの制限をかけない事を手伝っている。

人はちょっとした事で、それはやっちゃいけないとか、こうしなくちゃいけない…などと、外で感じる事から自分にどんどん制限をかけていく。そうしてやる気など、世界(社会)に簡単に挫かれてしまう。

本当は、外はそんな事を言っていないかもしれないのに。そう感じるのは自分自身で、制限をかける事の多くは最終的に「自分」である事も多いから。私達の中には、無意識に抱え込んでいる沢山の「背景」というものがある。

本当の自分を見つけていこう(*^^*)

・・・

※若い頃に、徹底して全く不要な動作に関しては意思の力で排除してきた。全く不要な動きをし続けてしまう事を分かっていたので、それは徹底してやめてきた。

ゼロにしたのはそれくらいで、他のことには基本的に自分に許していると思う。そうであって良いし、そうでなくても良いというように。

私というこの人が最終的に考えて決めた事は「それで良い」という事だけ…

自分の「全肯定」だよね。


正反対の主人と比較することで、よく見えることがある。

「ただ単に、拘っている事が違うだけ…」と。

全体的に細かいこの私が見て、「細かいな~、なんで?」と思うことが主人にはある。何で”そんな事”をほじくるのだろう?と感じる。

逆に私が詳細になる時、主人はそういう反応はせず、その雰囲気をこちらは分かるから「伝わらない?」と聞くし(そして話は中断、やめる)、主人の口から「ちょっと、何言ってるか分かんない"(-""-)"」という言葉をもらう。

人が話している事は、「自分の世界である事」が多いから。どんな内容にせよ、この私の中に取り込んでいるものを「私」というのだから、そこから出力される事は、その人個人の選択の塊。それを「優先順位」という表現を使ってもいい。

自分と他者において、優先されるものが全て同じという事はない。だから個人的な「その人・私」なのだから。

ただそれだけであるという事を、頭の中には置いておき、何かの時には引き出せば良いと思う。

・・・

「コトの流れは、見えない所からこうして見える所へ及んできている」という風に、例えばそれは遺伝であるとか、持って生まれたものであるとか…、私もかつてはそんな考え方をした事もあるけども。

その事は頭に置きつつ、だけどあまりそこを今は強く考えていない。

他者を考える時には必要(大切)なことであると理解しているけども、私自身において考える時、特に今現在の私に”それはあまり関係ない”という風な位置にある。それは文中でも少し触れている。

それは、過去の記憶を整理することのメリットでもあると思う。

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☆うみのみか☆
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