こんなん出ましたけどぉ~(笑)
これは、4/21朝起きた時の話です。
「夢」という状態であって、全てを言葉を使って書く事は無理。言葉より実際は殆どが”映像”です。自分の印象として大まかに3つのシーンが残っています。
「言葉」というものを使っていなかったシーンは、カッコ書きを入れます。先ずは①夢の世界を、そして②現実に戻っての話。②は意識(脳)の働きを実感した内容に触れたいと思います。
①夢の世界
私を含んで4~5名。
小さな直径3~4センチくらいの電子ものを渡される。
使い方は説明されず、手元のそれが中心(核)を伝える為に、核の点は光らずに周囲の点が囲ってソレを示す、という使い方だった。
その光り方を見て、
「あー、そういう事か(?)」と、無言で問うように、その装置を手渡してくれた人を見ると、何も言わず笑みを浮かべ、”うんうん”と頷くだけだった…。
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中国。大きな大きな”ルゥ”。
その、いる場所を感じているのは日本の龍の腹。全く違う形態を”似てるな”と感じている。
恐らく二輪車(のようなもの)。四輪ではない自動車が大きな道に、横いっぱい並んでいた。
私にはその見た目は一見、単なる個性(の違い)としか映らなかったんだけど、
『〇✖※△◇…にしている、アレ。あーゆーのだけ(がホンモノだ)』
ホンモノという言葉も言っていない。そう受け取っている。
”〇✖※△◇…”の説明もボヤけ、映像だけから解釈を判断していた。
声の主は、正体は「?」。一緒にいたと思うけれど、姿を見ていない。
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別の場所に。
でもこの場所は同じ場所(2回目と感じてる)。
小さな「店」。自由な女性2人。(1人は店主とその親友)
何かを選ぼうと下を覗いて扉を開けようとすると、店主は
『あ、これは私(たち)の・・・笑』
と、私物を並べてあった様子。
そのシーンでは、
「マスター、こうゆうのは・・・(召し上がらないでしょ?)」
と、見えない”何か”を指して、誰かに言っていた。
マスターと言いながら、”テンシュ(テンチョウ)、よね”と、(マスター→内心で思い、テンシュよね→内心の更に内心で)思っていた。
②現実に戻って
夢が終わった訳じゃなかった。
その日は主人が遅出の日で、先に主人は下へ降り、少し遅れて私が降り、主人のお結びを握って送り出してから、私はルーティンに入る―――。
夢の濃さが結構ハッキリしていて、そちらの中にどっぷりいて。
自覚として音に起こされたわけでも何でもないのに、「ガバッ」と目が覚め、隣を見た。
『ココ』の状況が全く判っていなかったから、
・Yさんはいない
・外は明るい
・…何時だ?!、この時間という事は…。
まだ完全に”現実”に戻って来なくて、少し古い「昨日」の記憶を探った。
・雨が降ってたの…
・ワン散歩に行けなかったんだ…
・Yさんは早帰りの日だった…それで、、
そんな事をぼんやり思い出しながら、いつもの朝の挨拶などを済ませ、下へ降りる準備をしながら、思い出した”点”をいくつか繋げていった・・・「昨日」が少し見え始めた。
身に付いている”儀式”は日常だからこなせる。それらも終えて、お結びを握り、主人を送り出して、ワン達へご飯のシーンの頃、段々としっかり、戻って来れた。(それまでに主人に状態を話したりして、”現実色”を濃くしている)
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「あー、ほんとに”緩やかに”じゃないと、空間が全く違うから、テレポートしたみたいだ」
そっち系の状態をしっかり観察しながら同時に、”いつものアタマの状態”が観えてくる。
これだけ”点”を繋ぎ合わせているんだ。
その点を繋いで、繫いで、連続させて。「自分」という記憶が保たれ、”自分が存在して”いる。
肉体が、ココにあるから”夢”と言っているけども、意識は強く、ハッキリと、中国にいたわけで、すぐに日本に戻って来れなかった(笑)※
どこにも表示されていない中国・日本。そう感じ取っている。当たり前に雰囲気だけで。
何年か前、ちょっとズレた時、まだそういう事に慣れていなかったから「マズい!」と思って慌てて現実、目の前にいるピースに意識を向け、触り、可愛がった事を思い出す。
記憶という脳内だけでなく、肉体でこちらの”実感”を与える事は大切。
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と、ここ迄がメモ。
※部分は、両方が観れるおもしろい部分、と個人的に思う。
「夢」と言っている、意識(無意識)が主体の状態と、ここ(現実)にある肉体との感覚のズレから「戻って」と言う表現が出ている。
そして。
いかに人が、「記憶」を繋ぎ合わせて生きる事ができているかという当たり前の事と、この記憶がなければ、「自分」という事の証明、自覚さえ持つ事が難しい、と感じた。
昨年?視た、養老さんの、
「どうして、昨日と同じ”私”と言えるんですか?」
という様な、”意識”の話を思い出す。
何の切れ目もなく、何事もない様に私たちの意識は繋がれて、それの元に自分は、日常というとても普通の、行いをする事ができている。
本当は、空白だらけの、全てが繋がっているという”幻想”を、埋めて、繫いでくれる事で保たれている「線」。
とてもおもしろい経験だった。