見出し画像

変わらないものがある

これは、昔から何度も書いている事なんだけど。

人は変わるんだけど、やっぱり変わらない部分もしっかり持っている、ということ。それこそきっちり根を生やして引き抜かれる事のない様な、そんな事は意識することなく、”ここぞ”という様な場面で「こんにちは!」って自然と顔を出すような…。

三つ子の魂百まで

そんな言葉が押し出されてくる。

・・・

それは単に、意図せず起きたその事がきっかけになって芽生えたものだったかもしれないけれど。その後もすくすくと、こちらが何の気にもかけない状態でも、安定してそこに居る。そういうのはもう、「私の一部」という事ができてしまうよね。

聞き覚えのある方には、もう何度目かで申し訳ないけども、私は小学1年生の時に両親が離婚したのだけど、その後に、父・母それぞれは相手の悪口を言った。私は両親が好きだったから、”どちらか”が正しい(悪い)などは、思わずに聞き流していた。

初めての職場で、元々は皆が仲良かったのに、何がきっかけか不明だけど、先輩方の仲違いが起きて二つに割れた。帰宅方面が同じ仲の良い先輩は、「ずるいよね、どっちにもつかないで」とある時言ってきた。

私は言い返さなかったけども、「どっちにつく」の意味が分からなかった。どちらにも可愛がってもらっていて、どっちも何もない事、”その事”は、私に何の関係もない事。これが理由だった。

こうして人生の中で、似たような出来事を2回私は経験している。それ以降はないけども、今に至っている姿勢はまったく変わらず無意識で維持されている。スタンスは全く変わっていない。


何かあると二つに割れる。世の中の動きはそうなる事が殆ど。そこに自分が関わるならば、具体的な意見も方向性も自然と湧くのだけども、直接に関係のない事には、湧くものもない。

それは少し間違えると「ただの無関心」ということで、物事を他人事にしてしまっているという事もあるため、できるだけ(ほんの少しだけ)意識を持つようにはしているのだけども、基本的には、「なる(なった)ものから考える」というスタンスが多いため、私の中の極論で言うと、どの様でも良いという風になる。

どちらかに直接関わる位置があって、その両方を見る位置があって。そして更にその全体が見える位置があると思うのだけど、どの位置も”役割”としてはやはり必要なものなんだと感じている。


皆がどれか一つの状態というだけでは、事は進まないわけだし、勿論心配しなくてもそんな事にはならないのだけど、全体の中のある一部という”役割”というのは、自覚されるものでなく、自然とその姿勢にある事で他の人の目線によって拾われ、新たな展開を続けていくそれ自体が大きな「生きもの」のようかもしれない。

現に話というのは、段々と元から遠ざかり、コロコロと転がって違う展開へと移って行くのだから。そして人もその転がりに自然と目線を変えてコロコロと転がり続けている。

そんな、事あるごとに様々な場面で起きる”どちらか”という状態の、どちらかにいる時というのは、その動きが好きでやる人にとってはおもしろい事なのだと思うけども、私は自分の経験(主人とのやり取り)で言うと、疲れること、面倒なことという印象でしかない。それは”感情”が絡んでいるから。


これは、この話の相手が”主人”という所が肝だと思っていて、距離の近い人だと、自分の感情を出しやすい状態にあるため、簡単に熱くなれる状態にあるし、何かをセーブしなければならないという、冷静さも弱くなりやすいから。外のやり取りは、その様なことを考えなくても自然とその働きは強まり、ひどく熱くなる事もない。感情が絡まない時というのは、”楽”ではある。

逆に冷静な頭である事が多いならば、必要な時には熱くなることを意識して実行する。「外だからこうしなくちゃいけない」という理由で姿勢が変わるのでなく、必要に応じて選択は変わるのだと思う。

他愛のないそんな事をツラツラ書き出してここで思うのは。

やはり「頭の状態」なんだよなぁ、ということ。その置かれた場面(環境)によって、意識せずとも”その状態の頭”が主として働く(働きやすい)状態があって。それが”主”になっているならば、逆の行いをするには「意思」が必要になるということ。


範囲を少し広げて言うと、「この事が”順当”である状態から物事を見つける事は難しい」という事でもあって、何かが順調に運ぶという事は、うまく行っている可能性もあるし、見えていないだけという事でもある。

どちらの状態にあっても、自分への問いかけという様な確認・チェックというものは大切なのだと思う。

慎重になり過ぎても石橋をたたき過ぎて壊して渡れなくなるし、スムーズ過ぎてブレーキを忘れてしまう事もある。結局どんな事でも、色々な経験をする事によって、走る・止まる・加速するなどの加減が分かってくる。その加減自体が各々によって異なるので、他者と比べても仕方がない。

自分のリズムと外での流れなどとが、違和感なく合わせられるという事が、自分にも負担の少ない、外とも摩擦の少ない適度な状態になるのだと思っている。

基本的なことを着実にくり返している時、それは無意識でも”成長する過程”に乗っている状態なのだと感じている。無意識から切り出した状態だったり、無意識に預けておいたり…。意識と意識外とを自分の意思を使って使えると、きっと面白いだろうと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

☆うみのみか☆
応援チップありがとうございます。自然と学べる記事の提供で倍返しいたします!コメント頂ければ内容を盛り込んで記事として出力いたします。 共に学んで参りましょ~(*^^*)