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けっこう”叶う”もの

「(100人の世界として)1人が99人のために生きる…って苫米地さんが言ってたの見たんだけど、どんな世界なんだろうね。想像もつかない…」

主人が話し出した言葉に、”おっ”と内心に思いながら返事をした。

『素敵な考えだよね。みんなそれぞれ”人のため”を考えて生きるって、みんなが幸せだもんね』

”オレ”しか見えていないことが多い主人の口からそれが出ることに「おっ」と思った。まず何か自分にとって「そうか…」という気づきが出てこない事には何も始まらないから。

主人のペースで、家の中で決めたストレッチや軽い筋トレをやっている模様。多少の(?)痛みから息が漏れる。横たわって行うその動作をチラッと見た。

『あれ~。”99人”、他者のためにって言ってたよね…、ミルクが水飲めなくて立ちんぼしてるけど(笑)』

主人が横になって伸ばしているその足は、ワン達のケージの前、水飲み場の真ん前だった。入り口近辺をふさがれて入れない状態。

小さな事からコツコツと。
日頃の動作は意識していかないと、勝手にその様にはなっていかない。

・・・ ・・・ ・・・

主人が退院してから、色々と落ち着かなかったことが、漸く一段落したという所に来た。”何が忙しかった”と具体的に言えないそれが「日常」というもの。細々の連続なのだと思う。

月曜日。退院後の挨拶と、12月から復帰することの挨拶を兼ねて、主人は会社に顔を出しに行った。私は後から聞かされて知ったのだけど、主人用の新車(大型車)が用意されているという事だった。

他、一件寄る予定とその足で帰宅前に実家に寄ってくると聞いていたのだけど、このあいだの買い物時には、贈答品の個数が少ない事を思っていた。「良いのかな?コンビニでデザートにするのかな…」と。


帰宅してから主人の色々な話を聞き、最後に「実家に寄ってきた」と言う。

『何か買って行ったの?』
「なんにも」
『あ、、そうなのね(笑)』
「そういう考えが一切なかった」

『なるほど、そうかもしれないね。あなたは自分の”親”だもん、何の気も使わないよね。私はやっぱり”外から”見ているもんだから、そういう考えになっちゃう…』

以前顔を出した時には、主人はコンビニで何かを買って行ったという事を聞いたことがあるのだけど、今回はまったくその発想はなかったという事らしいのだけど。

持っていく/いかない。自分の親に対して、”気を使う”必要はないと私は思っている。親子はそういう関係になれてそれで良いのだから。

ただ別の思いとして、「これをしたら”相手が喜ぶだろう”」という事で”持っていく”はあるだろう、という風には思う。これは正しさじゃない、相手への思い。同じ「持っていく」でもそこにある”理由”は変わる。

人は、自分以外の「他者」との関係、間柄によって自然と自分の在り方・行う動作を替える。それは一々考えなくとも自然にその選択をしている。

相手がどうこうという事より、「この自分が」、それに対してどう考えているか、どの様な位置づけにしているか、という事は、無意識含めての意識絡みの選択となっている―――。


我が家のワン達の動きを見ていると、”他者”との関係性というのは、自然と出来あがる序列とか、または生き物としてのルールというものがある様に観える。

「水のみ(場)」の話は以前にも書いているのだけど、やはり水は生きる事に関わり、その近くに居ることは”強い”というのか、近くに他の子がいるだけでもミルクはそこへ行けずに、「飲みたい(行きたい)けど行けない!」という仕草を、少し離れた場所でケージをカリカリと前足で引っ掻いて訴えた。

「ミルク、なんか、自分で水が飲めなくなっちゃったみたい…。さっきもまたカリカリしてオレがそこに置いてやったの…」

その話を聞いた時、私もすぐには分からなかったけども、以前のピースみたいにミルクはそこまで神経質な子でない為、主人が想像する”飲めない”ではないと思った。

『あぁ…、この子がここに居るからだよ(笑)この子はただ、ここで寝てるだけなんだけどね』

その日はたまたまライトがケージの隣で横になっていて、そこは水飲み場の隣で。ライトはまたしょっちゅう「ウー(唸るだけで弱い)」と唸る事が多いものだから、「行けなくなってしまった」というものだった。


これは、現在我が家で一番古い先住犬になるライトだから、という事でもなさそうで、逆にライトはとても”律儀”な印象すらある。

他の犬の前を堂々と横切らない、とか、他の子が一切気にしないようなその辺に散らかったベッドや敷物の上をズカズカ歩かないとか。普通に真っ直ぐくればいいのに…と言うその進み方をせずに迂回をし、”障害物”があると、来るまでに道を選ぶ様子すら見受けられる。

ワン達を観ていると、教え込まれたことによる習慣でなく、また別のルールとしてそれがあるという様にしかみえない。少なくとも私はそんな事は教えることも出来ないしやっていないわけで、だけど自然とその様に出来上がっている「もの」を見ていると、他の者との関係性、距離というのは、それ以前の話なのだと思っている。

その、「他」との距離の取り方にも、個による遠近があるため一律でない。

近づくために気を使い、気を使わずに近づける。それは行う側の動作だけども、それを受ける側の受け取り方はまた全くまちまちの距離の取り方なので、それらが初めからピタリと合う事の方がやはり少ないのだろうと思っている。始めから合えば”ラッキー”。

基本的な動作、在り方がそこにあって、その上で高度な言語というものを使って、人は交流をして行くんだね。


因みに。水飲み場の近くでミルクが「ウー」という逆のケースもある。ニコルは他の子が誰でも遠慮する”良い子”。

他の子がいることで前を通れない、近寄れないという場合、見えない様に手で遮ってやるとか、その「間」に私を挟む形を取るとか…。どちらにも直接に相手が映らない様にして対応する。

良い子としたのは、私の中ではそれを弱いからその様な態度をとるとは全く思っていなくて、他へ気が回るという”配慮”ができるという意味で、恐らくそうだろうと思っているから。

ニコルはやっぱり賢いと思うし、健康であればガタイもしっかりしていて弱くなく寧ろ強い。その上でそうする事ができるのは、別のところを働かすことが出来ているからだと、私は思っている。

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☆うみのみか☆
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