尖らない”調和”がいい
思っている以上に、ちゃんと周りから”影響される”という事が当然にあって。
影響されるというより、”その様になる”当然の在り方がただそこにある、という方が近いのか。
ワン達の動きを観ていてやっぱりそう思う。
・・・
パターンで学習(記憶)しているよな…と思う。主人がいる時の流れ、その経過をパターン化してしっかりと記憶している動きがある。
私との間では決して起こらない、ワンのその動きは、ワン達と主人との間で起きていることを見ると、確実に主人相手にしたその存在に対しての動きだという事を感じていた。
”相手によって”接し方を替える、替わってしまうのは当然のことなんだと、それを見て自然なことだと思った。だけどそれを人が人に対して行う時、それは決して”自然なこと”とは見られない側面もあると感じた。
人が人に対して行う諸々の動作は、相手が人によって”違う意味で”本当に変わってしまうから不思議。それは少し考えてみると、人として見るとその行いに”意味”が出てしまう事、人だからより多くの情報を絡めてそれを処理しているから、という風に感じた。
「意味が出る」というのは、人の世界で様々に作った、身につけてきた沢山の”記憶”のことであって、その処理と併せて目の前の物事を観るから、動物たちの様にシンプルにはいかない。
―――あー、そうか。
例えば観光地などにいる動物の、”人に対しての動き”を考えた時。それだけ多くの頻度で「人」という存在を見るという経験によってか、それは”個人”に対して行われるものでなく、「人」というそれに対して自分が行うことが引き出されている、か。
もう一度我が家のワンのことを浮かべてみてのそれは、”個”に対して紐づく動作となっていて、「人」でないことが明らかで。という事は接触の頻度という”濃さ”で自分側の動きは当然替わってくるわけなんだ…。
逆の言い方をすると、その濃さがなければ、「個」を観ることはない…つまりその個は殆どが”情報”に偏り処理されるということだ。”分からないもの”に対しての判断だから、当然そのような”大きな見方”を当てはめることになる。
(ちょっとここから、内容的には横へズラしていく)
今までよく思っていたことは、人は相手に対して”分かっている”ことによって、漸く少し相手を受け容れられることが可能なのだということ。”分かる”までは、相手に対して”自分”を当てはめて見てしまう事がとても多く、「色々な人がいる」という頭での理解との開きが大きい。
少しずつ、何らかのきっかけを通して”相手”がこの自分に見え始め、やっと少しずつ”自分”から離れだし、相手を相手として見えるように映って(移って)いく”分離”と感じた。
これが考え方は同じでなくても、端から相手を相手として見ている人々がいて、それは訓練だったり職業がらであったり、経験からであったりと、自分と確実に切り離した見方をしている人たちもいて、こちらは何らかのスキルを以ってそれに代わる対応をしていると感じた。
その、それらの”端から”を持たない多くの場合は、いわゆる言い方で「人間関係」というもので相手の存在を受け容れることを可能にしているわけで、例えば同じことを言っても同意できる/できない人というものが、相手によって変わってしまうのは、ここを結ぶ”濃さ”の有無があるからだろう。
コトは「同じ」という同意に始まるかもしれないそれは、関係性が次第に濃くなる事によって、互いの違いへの同意に変わり、自分と他人という事の違いをそもそも当たり前に、自然に受け容れられる状態、「認める」ことが可能になっていくのだと思う。
自分と他人が別な存在なのは当然のこと。
この在り方自体にも、何の問題もない状態なのだけど、どうしても濃さが出てこないうちには、相手の存在を自分の価値観で見てしまう事も自然なんだろうと思う。
分からないから。相手が分からないという事は、自分にとって怖いことであって、分かるために自分の基準を使うしかないのかもしれない。
そう考えたら少し頭の理解は進むかと思うのだけども、それでも尚、いざ目の前にそのような出来事に出くわすと、キーッ、ムキーッ!とかなるのもニンゲンなんだよね(笑)
人は、頭のハタラキが良いだけあって、とても不便なもんだね。
幾度か書いているけども、ワン達は言葉より、その人の一連・動作と自分の中を結んでいる。だからシンプル。
次はこれが出てくる、この音はアレだ、この人はこれをくれる、楽しい所に連れて行ってくれる人…。
ワン達は自分の「快/不快」と他人の動作をしっかりシンプルに繋いでいる。(人も奥側ではそういう事なんだよね(*^^*))
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!