大事な所はいつも見えにくい
自分に責任を持たせるやり方でもあると思う、自分が直に確かめると言うのは。
自分自身がやるのだから、その中身には「合っている/間違っている」を存分に含んでいる。自分で考える事をしなければ、まず間違ることもなく、そして知ってか知らずかそこを”他者”にしている限り、「他人のせい」にできる理由をいつも持つことができるという事になる。
そういう事も中にはあるかもしれないけども、いつもいつもではないはず。もっと言えば、それがいつもならば、この私の中には「誰」が居るのだ?となる。
正解かどうかより、間違いは自らが学ぶ機会としてもラッキー。自分に確実に返り、処理ができる循環も回る…自分の血肉になる。
自分の中の”他人”が変わり続けるだけでは、表面を流しているだけで、一つも自分の中を巡っていない。
・・・、大まかな把握で、「向きが逆」と分かったなら、その処理は各段階でも(一時的には)逆向きで捉える必要があるかもしれない。
逆のサイクルを回すのは、今までがクセづいている程、時間が必要になる…だからやらなければどんどん時間が必要になるかね。
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自分の中にある無意識に保持している”向き”。
これは無意識に固めてあるので、思っただけでは切り替わらない。だけど少しずつ浸透していくようにやり続けていると、大分時間をかけて、やり続けると少しずつ自分の中にある感覚が変わってきている事に気づく。
”…、こういうことかな”という漠然とした軽いイメージから、重ねていく事で、少しずつ濃くなる感覚。作り出しの時は何もかもはっきりとした手応えなんかない。
その線を濃くするには、何度もくり返しやり続け、そのパターンをクセ付ける―――、脳内に見えてくるものが変わってくるから分かる。
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「向き・方向」の話をしばしば書くけども、これはある意味当然でのことで、人の自覚では、行っている事をバラバラに記憶するのでなく、連なりとして並べている「感覚」を持っているので、そしてそれは無意識にそう感じてしまうので、考える時の方向は、意識をしなければ「→→」という方向をとる。
”このこちら向きの方向を感じる”、という事は。このソレというものを「受けている」人というものがそう感じるという事は。それは逆向きから来ているものであると、考えれば分かるのだけども、それこそが人の無意識の感覚で、その事の把握、意識付けをしないと、頭の中に勝手に感じさせられているその感覚を持ったままで、その感覚を否定することができない。
向きを変える事によって、他のヒモ付いていたものも解して行かないと、この次元で”新たな目線”を生んだに過ぎず、またいつもと同じようにそのうちに過ぎ去ってしまい”変わらずに”終わる。
古い意識、価値観。
切替えていきたいと、多くが心から思っている事は、しっかりと次元を替えて見て、こなして行かなければならない。
→から←へ。それはどういう事か。
”ここ”という既存から考える向きから、”外”というそこにあるモノを見て受ける。外のそれを「主」として見る目線。自分の中の判定を減らし、まずは受ける。
そこから開ける様々をアタマの中で展開してみる訓練でもあるのだと思う。”吟味”はずっと後で良い…、すぐに吟味できるならばそれは何かに当てはめた「既存」の可能性が高い。
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そのものを「見る」という時。人は殆どの場合この目を「主」としてものを見るだろうと思うのだけど。だから”主観”となるのだけど。
上記で書いているのは、「←」の向きなので、外から自分側という向き、一般的な(通常の)機能のさせ方の逆として目を使うので、”主”はその対象となっていないとおかしいという事になる。
見方としてはたったこれだけなのだけど、その中身を分解すると、主が(一時的にでも)そちらに変わるという事は、それへの処理の仕方も”逆”でなければやっている事は今までと同じとなってしまうため、切り替えが必要となる。
例えば何かを初めて見る時、ソレは単に観察の対象になっている状態があり、知らないものであればある程に、ソレをよく見て様々な拾える情報を掴もうとすると思う。
それがない状態が、自分に”主”がある状態で、外のそれを「分かったもの」として捉える目線(状態)がある。”分かった”と処理をするという事は、自分の中の同様の情報と結びつけられたという事。更にそこに自分の中の判定などを重ねて処理したりする…自分の価値観。
たとえ、本当にそれが自分の情報と合っていたとしても、ソレを「主」として完全に見た時とでは、自分の中からの情報の出方が違う。そこにあるのは、自分ではなく「他」という自分以外の情報の塊だから。「何も分からない、知らない」所から本来始まるはず。
その実際の相違を省いて、外の情報を”同じ”とする人の意識があり、結果は同じになったとしても脳内で使う経路は違っていて、他を主として見ることの目線は、通常では使っていないことが多い。
だから、通常私たちの意識はそう簡単には変わらない(切り替わらない)というのは、こういう事になる。頭の中の再生状態では、モノの見方を切り替えただけで、ここの部分も引っ張られて変わるという事はない…だからクセ付け、くり返しの行いは必要になる。
結果的に同じになる事と、そこにある情報を拾った事とでは中身は違っていて、その処理により、この内側の意識に変化が出てくるものだと思っている。
(それを無意識にできる時、そうしている時があって、その時は当然「自分の予測と外とが合った結果」を自分が手にすることができる。コツはいつも”目に見えていない”処理の部分にある)