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工作は得意でした…多分

はてさて。
幾つかの事を「今度書く」としたので、どれから行こうか…。

あー、あれだ。

今日はこれに決めた(*^^*)


先日私は、音声noteで「こう考えることも偏り」という話をした。

それは記事内の、これ↓↓↓

「決して、私の意欲を削がないようにする為に、自分で見つけて行ける様に邪魔しない見守り」

〈10/22 色々な共鳴 うみのみか より〉

”他者に対して”その様に私が捉えた、という話なのだけども。

そしてその私の「捉え方」というそれに至ったであろう経緯を、分からない事はそのままに、思いつく事は浮かぶままに書いていきます。


音声では「良く捉えてしまう」という様な言い方をしたと思うのだけど、話しながらではソコに気づかなかったけども、その事をその後に何度も回想しているうちに、私が持っていた、今でもその様にしているスタンスを引き出すことはできました。

『分からない事は、”良く”捉える(考える)』

というもの。

前提として、他者という相手が「人」の場合です。

最近でもXでポストしたと思うけども、一発で相手の考えが判明する事ばかりではなく、分からない事と言うのは昔からあります。それはこの意味で言ってるのか、それともコレか?この人はどう考えている…?

そう感じて、相手が何を心に思って(考えて)言っているのか分からない言動というものを経験していたから。

そういう「分からない」時、そこで一々話を止められない時、昔は「良く捉える」という事を私は選択していた、という事を思い出していきました。


その”経緯”は忘れて、今となっては「偏り」という表現に変わっているのだけども、それはそれこそ今の私の地点・目線を現わしていると言えるのだけども、その前段階としては、その様に考え、選択していたという事が判りました。

なぜ”良く”捉えたのかの理由は明確で、「どちらにも捉えて良いものだから」ということ。人は良くも悪くも捉えることはできて、そして自分だけの話でなく、「相手が絡んだこと」であって。

相手の事を分かっていない(知らない)のに悪く捉えてはいけない、という風に考えていたから。若い頃には、よく口にしていた事も思い出されてきました(*^^*)

で。
するとどちらにも捉えて良い事なのに、どうしてその「良い方」に捉えるかと言えば、幾つかの理由はあるけども、ここでは目立ったコレ、「私が良く捉えてもらってきたから」と、”私が”そう思っていることを取り上げて書いていきます。


それは遡れば多分やっぱり、小学~高校までの色々な教師の方々によって、「その様にしてもらったから」という事に繋がる様に感じている。

私自身は、ごく普通の「子」であって、何かが優れていたと評価されたことはなかったと思うし、酷く欠点として自覚させられたという事もなかったと思う…音楽と図画工作を小2で通知表「2」と取ったこと以外は(笑)

通知表エピソードは笑い話なので、笑ってもらえれば良いのだけども、本当に普通と思うし、褒められるから「良い事をしよう」と、せっせとやった訳でもない、という事は、現在の在り方を見れば少しは判ると思うのだけども。


でもこの、「(思い出せば)その様に接してもらった」というその環境は、まず私は今までずっと、”良かった事”としてそれを認識しているのだろうし、そういう事から「相手の事」を考える時、判らないのであれば「良く」、という風に身に付いたと思っている。

そしてこれがまた、いつか書いたように、「私には”お蔭様”がたくさん居るようで…」と、また良く捉えるという事に繋がっていると思う。

これは途中までは「それでもよいこと」なんだよね(笑)


ここからは、「大人」になってから、現在の認識へ変わって来た経緯を少し書いていきます。

初めはやっぱり”習慣”通り、その様にした。

だけど、大人になるって、世界(社会)に出るって、そんな「純粋」なだけでは通用しないんだよね。キレイごとじゃなかったし、イヤな考えを持つものも散々いるし。どうしたらそうなるのか分からない事も、当然この大人社会では経験するわけだよね。そうやって揉まれるわけだ、荒波に。


そういう事を経験していくと、「良い人」ばかりじゃない事も当然見えてくるわけで、自分ものの見方を少し考えるようになる。

いや、今でも基本は変わらない。「分からないは良く捉える」があるけども、明らかに違うのは、その結果までを想定した上でその選択をしている、ということ。

結果の想定は、”そうでない場合”という事になるのだけども、重要と感じるのは、そうでなかった”という事実”よりも、そうでない事を「受け容れていく」という自分側にコトを戻すことのように私は思っていて、更には「良い悪い」と捉えているうちは、自分がその”目線”でいる限りは、このステージから永遠に離れられないと思った。


コトの事実は忘れてしまったりするのだけども、私たちは何か、昔の経験から得たものを必ず身に付けて今現在まで運用している。

私が子供の頃は可愛かったから贔屓気味にされたことは置いといて、(ウソよ)その様に接してもらったという事は、何か自分自身の中に残っていると思います。

だから、その内容というものよりも、その背景とか周辺とか。意外と具体的にされていないコトの方が、人に対してイイモノを感じてもらえるかもしれない。(また逆もある訳だけども)


人は結局、「自分がされたこと」を他者にもするものなので、何か人によってもたらされた事が自分にとって「良い印象」であれば、私たちは誰かにもまたその様にするのだと思う。

これがまた回りまわって冒頭へ還るわけだけども、「自分がしてもらった・その様に捉える・その様にする」という流れは維持されたままになっている。

やろうとしていなくても、その循環が出来上がっているのだから、これが「逆」の悪いケースだと、「自分がされた・その様に捉える・その様にする」という事も起こりかねない循環となる。


”その様にする”までは行かないまでも、間違いなく解釈はココにある訳で、これがそもそも「他者の事を(自分と同じように)理解できない、初めの分岐」であって、ここからそもそもの前提が異なっている事になる。

同じ、「他者の言動」を目の前にしても、同じように見えていないというのは、簡単にはこのような事。自分の経験が元になってそのフィルターを通して他者の行いを見ている(捉えている)。

自分の持つ前提と他者のそれとは違う、というのは、少し観察を挟まないと判断ができないもの。

その為に、自分の第一印象で”決定”まで持って行くのではなく、仮に自分がそこに何かを感じたとしても少し置いて待つ(観る)という、時間をズラすことは大切だと思っている。

(自分側に感じたコトはそれはそれで良いので、判断までには少し時間を挟むこと)

時間を挟んだことで、言葉にされていなくても、他者に”どの様な解釈があるか”というのは、観えてくる。良し悪しより「前提」。

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☆うみのみか☆
応援チップありがとうございます。自然と学べる記事の提供で倍返しいたします!コメント頂ければ内容を盛り込んで記事として出力いたします。 共に学んで参りましょ~(*^^*)