ー内側で旅したいー
大きな文具屋などでしか買えない物が注文出来たり、”雨の中行きたくないけど薬が切れるな~”と思えば注文ができる。
ネット環境がある事の便利さは、こういう時に本当に有り難いと思う。何とも言えない静かな安心が今この場で手に入ってしまう。
なくなるという思いから生まれる焦り、手に入るという思いから生まれる安心。今ここにあるかどうかを全く無視して人はコトの前後に思いを付けて揺れる。
今日は別のことを書く予定でいたのだけど、昨日の朝の流れ、デキゴトがあまりにも鮮やかだったので旬なうちに(*^^*) かなりの明るさを見た。
・・・
メモから)
そうだな―――
朝、思っていたあの状態は、こういう時に使っているわけだ。
下痢をしているのがミルクだとほぼ確定した時、ミルクの動きを振り返っていた。
”昨日は散歩でウンチをしなかった…「めずらしい」と思った。夜はした?ちょっとしたかな…”
”ーー”この部分。内側できちんとした意識までは上げていなかった。でもデキゴトとしてソレは見ていた状態。脳内に記録はある。はっきりとしていない状態の記録でうろ覚え。その光景・映像は確かにある。
だから。
後で確定される
これもちゃんと終わりに書いてあったね…
・・・
17日のnoteの終わりのあたりは、船を漕ぎながら時間だけが過ぎて行く状態でやっていて、終わりはメモの一部を充てていた。
(16日メモ)
状態はいつも後で確定する。
その時という瞬間の把握/解釈は、その時にはできず後で理解され、”その時”が決まる。…移りゆくもの、変化、流れて行くもの…
人の頭の中を通して「みる」ことで理解・解釈、判断ができるので、人が頭を使う限り、”その時”は分からない。
という短いメモから取った。これは他の、連なりを持てるものと繋げる予定だったのだけど…。17日朝に、これらの事が繫げられる状態になるとは思わなかった。
・・・ ・・・ ・・・
まとめを先に書いた形なので、少しその日のメモを元に書いていく。
(このメモ帳の最初のページの)、「自覚はいじれる場所に見えている」は、次に触れて行こうと思った所。前日にマーカーで囲っておいた。
フォーカスされたんだろうね、脳に。その事がよーーく見える状態になってデキゴトを通して観ている(状態がある)。
この「内側」のサイクルが加速すると、自ずと外のデキゴトの印象は薄れるんだ。だからその状態を”コトから外れて”とか、”意識にあまり深く落とさない”などという、デキゴトに執着しない様子を今まで表現していたんだ。
デキゴトはいつも通り起きている。内側(自分の世界)の回転が進み、外側(外の世界)に意識が深入りせず、必要な対処に絞られる、しっかりと”分けられた”状態。
意識という”私”が、外側にムダに絡んだあれやこれやがないシンプルな状態がこの時出来上がっている。内部対話って、ここが絡んでいる状態だったんだ―――。
「わかる」ってしっかり繋がった状態だ。だから”明るく”なるんだ。
・
メモの状態は「そこ」から流れてきた解釈なので、私が朝のヌボータイムで脳内に観ていたものをなんとなく以下に。
自分の中で、ハッキリと意識されていなかった、でも常にあり続ける映像…それをただ観るような状態から、まだ「わかって」いない事を、あーかなこーかなと一応の答えを出してみたりする。まだ自分の内側だけの状態で。
それがうまく何かと繋がった時に、”肚に落ちる”などの表現される状態が、自分の中の外側にうまく出せた、繋げられた状態であって、”私”に繋がれる…それは私の世界が築かれた時。”納得”という印象の明るさとなる。
自分の中の奥側の状態から、外へ紐づけできた状態になる明るさとは、こういう感覚なのだと「私が」感じた。自覚までがまたかなり長い道のりなんだ…。「その事」は観えたとしても、解っても、自分自身の「その事」とはなかなか結び付かなかったりする―――。
ただしこれは、私の世界であって、外の世界の何かと一致するとか正しいかどうかは別の話…別空間だから。
この内側の世界「私」と外側の世界を、どのように繫げ、時に溶けこみ切り離し。自分の世界は守りつつ、それでも時には壊す必要(リニューアル)もあったりと…、何かそんなことの様に感じた。
そしてそこから感じたメモを最後に。
「おもしろい」という感覚は、こういう事だったか。
外の事象がそもそもおもしろいという事もあるけども、”この事”を考えれば、外のデキゴトを見ながらも直接ではなく、内側の、”私”の世界で感じている「おもしろさ、喜び、関心事」から感じている状態があるという事だ。
それを(外側で見る)人は、外の事象、デキゴトのそれを”みて”結ぶから、「そういうのはどうなの!?」と、別の(厄介な)デキゴトが生まれたりする。
内側の「個」の世界、外側のリアルの世界。
人は、外側を見ていてそこに居ても、内から湧く反応の選別まではしない、通常できない(?)ただ自分に感じる事として寄越される感覚があり、「あぁおもしろい」と表現したりする。外に出る言葉もまた、内側だの外側だのを区別して見ることはないから。
だから。
ここはとても大事だと思う。
外のその事、例えば苦しいこと、辛いことなどのそれ、ネガティヴな状態自体を、喜んで、嬉しがっている訳ではない、という事。それは内側の”私”の世界で何かを結ばれる前の、または結べる今を感じている所から。
それが表の言葉では、それらの事も「楽しめる・喜べる」と表現されているのだという事。
中身はこういう事で、”その結果に”、「内側でまた何かある~!」という期待を寄せる「予測」からの喜び楽しみとなる。
ごく一部の「そう言うこと自体が喜び~ムフ」という話は今していない(笑)
・・・
マーカーで囲っていたのは、
【自覚に上がっている、というのは、自らそれに触ることが可能ということ。いじれる場所に見えているということ】
というものでした。