”肯定”の正体?

【自分を肯定していく旅】
を書いて、そこからこれとかコレなんかに続いてきてるのだけども。

今回で、”どこか付け足したりない様なその感覚”を書いて、このシリーズは終わりにします。

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「なんで、(自分を)素直に認められないのかな…?」と思うコトを、生きてる中で弱くも、でも確かに感じ続けてきたからだろうと思う。

例えばごく単純に、引くに引けなくなって自らの過ちや、選択を認められない、なんて事は可愛いものだと思う。それはすごく浅い所の話なので。

そうではなく、例えば後悔する様な本人にとっては”オオゴト”の時、これはまたそれを認めることが難しい…、”後悔する”という気持ち上の事実があるのに、自分の中のそれを認められない時がある。”想像”で書いているけども。


想像。
私は、自覚上は心残りとか、後悔している(した)という事がない。

これは、やることなすことに自信があるとかそういう事でなくて、ソコという所で全力を尽くしたら”その結果”は自分の範疇にない、と思っているから。

明るく前向きに考えているから、結果に執着しないと言う訳でもなく、またその結果は何でも良いとかそういう事でもなく。望む結果を求めて行動していくのは当たり前の事で、「やってみた結果は分からない」というだけであって、分からない結果を求めている訳じゃない。

結果は受け容れるけど、その行いを実行している段階で、口に出さずとも”良い結果”を望んでいるに決まっている。その為の選択だから。

(念の為、主人に聞いてみた。『私、後悔してるって言った事ある?』と。「ない。」と返事。『そうだよね、言った事ないよね』と返した)


話しを戻して。

上記の”脇道”に関係はしてくるのだけども、表からはそんな堂々さが見えるものの、そもそもがこの「自覚されている直前」に、隠した”後悔”があるんじゃないかと、疑うことが出来る。

あるんじゃないか、というよりその可能性を抱えている。

その「現われ」が、「自分を肯定していく旅」という形のヒョーゲンになっていると言えて、色々なことで書いている様に、当たり前のその状態であれば、”言葉”にする事などないから。一体となっているものはその必要がない。

そう考える時、私のそれは自覚上は”後悔のない人生を送っている”ものだけども、表にされないカタチで”後悔がない様な行動をとって打ち消している”と言えた。

そう考えると、実におもしろいと思った。

・・・

これを書きながら主人と”後悔”について少し話し、そこから広げた会話になっていたのだけども、「後悔がない」という状態というのは、無意識にも後悔とする状況が発生していて、それをまた無意識にもカバーしていく動作をこなしている、と。

この”カバーする”ということで、消化されて仮に自覚にあった後悔も、その後の選択・動作によって打ち消されて行くんじゃないか、ということ。それこそオセロを返すように、「塗り替えられる」ように。

現実の話、後悔がある・ないという事自体は何も大した事ではなく、やはり”その後”によってその先が変わり、その先が変わっていくことによって、過去のソレらは打ち消されていく…、というような流れを感じた。


「例えば後悔があるとして、もう一度”そこ”に戻れるとしても、戻りたくない。”良いこと”が起こる保障もなく、また色々を体験してくる事がイヤだから…」

主人は以前に、泣くより笑っていることの方が人生に多いと言った。だけど、苦しいことや悲しいことなどの方が”強い”とも言った。

『ということは、”量”で言ったら良いことの方が多いのに、イヤなことの方にフォーカスしている事が多い、という事だよね』

人というのは、特に日本人はその傾向が強いのだと思う。そして私も、

『私も、戻りたいと思った事がない、戻るのはイヤ。また”同じこと”をするのが嫌いだから。例えば後悔することがあって戻ってやり直すなら、”この先”にそれを創っていった方がいい…と思ってる』

そう言った。

そしてそんな会話をした上で、『”生きる”って大変なことだと思ってるって事だよね(笑)』と話した。楽しいことだけ、思いたいことだけ、明るいことだけ…。

そんな出来事しか起こらなければ、どれだけでも長く生きられる環境にいられる事を望むだろうから。だけど、それを選択しない理由が隠れている事を会話をしながら感じていた。

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もし本当に、殆どが「苦しい」事が前提になっていると仮定するならば、だから人は、真実より明るくその時を過ごせるように、生きている間を少しでも気分よく過ごしていけるように、様々な手段を使って”自分を誤魔化した”のだろう、と思った。

誤魔化しがいけないとは思っていなくて、それは”生きていく”という事が当然の前提に置かれた真剣な話で、それだからこそ遊びというエスケープが所々に仕掛けられていても良いんじゃないか、と私は思っている。

真実を知るより、考え方に救われる時がある。

その救いによって前に進めるのならば、それは大いに役割を担っていると思う。だけどそれもまた、考え方の域を出て”真実”として存在しようとした瞬間、その救いは幻になってしまう。

”考え方”をどの様に捉えて活用するかは、使う側の意思によって決められる。

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☆うみのみか☆
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