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置き換わらない自分

昨日のnoteでも、以前にも書いている”食べ物”のことは、「私は大体何でも食べられるから主人の食べたいものを優先で良い」という、私の中の素直な”気持ち”としてずっとそうなってきているものなんだけど。

ずっとそうなっている。

凄いよね、人は結構なウソつきなのよね。いやいや、自身に対してウソなんてついていないし、そういう思いから実際にそうしているのだから「本当の気持ち」なんだけど―――?

おかしくない??その時「“自分”が分かる」わけ。それは気持ちの顔した考えね、という風に。気持ち、それは思いと出方は何ら変わりなく、本当に”そう思って”その事をすると自分で決めている、、なのになんだよね。


で、”そう思った”ことがウソというのは表現だけども、それもそうなんだけど、もっと奥に、別の自分の中の想いというものは確かにあって。そしてそれは決して何かと置き換わるような事などなくて。

だから、何か自然とタガが外れた時、見えないフタが外れている時に、その静かな想いを行うだけで本当に幸せを感じ、「そんな事?」という事が時に極上を感じさせてくれる。

大袈裟な話じゃないんだよね、これは。

それだけ人は、「自分の」自然な想いの実行をしていないという事なんだよね。さらに言えば、この自分がそれに気づかない。他者との関係から生まれる自然な思いがあって、それにより自分の中の選択・在り方を決めて行うことは、人として自然なことだし、それにより自分へ還ってくる”思い”もあったりと、大切な行為だと思うのだけど。


だけどそれでも、やはり私、自分という存在はきちんとココにあるわけで、それは他者との関係性によって打ち消されるものでもない。きちんと必ずいつもある。その自分を迎えに行けるのは自分自身しかいないんだよね…。

他者の存在が大切であるならば、同じだけ自分へも「大切なものを持っている存在だ」と認識をした方が良い。これは本当に間違いがない事なんだ。

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で、昨日noteで食べ物のことを書きながらその内容に一部笑ってしまって…。「食べたいと思わないものは口に入らない」と、私は書いておきながら、主人が退院した後の食生活は、「何でも食べてもらう」という事に近いことをしようとしているわけで(笑)

勿論、ムリヤリに食べさせることはないけども、もう少しメニューは色んな物を入れて食べて頂くようにするというもの('ω') あまりにも範囲が狭すぎるので。実際に、病院ではしっかり食べているんだから。

でそこで必要になってくるのは「話す」という事になるわけで、人がそれぞれの好き(嫌い)を持っている以上、その者同士が同じ場所に収まっている以上は、歩み寄り、協力というような築き上げが必要になるんだね。それが「お互い」というもの。

”他人”と近距離でいることの煩わしさというものも事実ある訳だけども、血縁だってそれは同じことで、結局人が人と共に居ることは、幸せの裏側も例外なくきちんとあるという事。だから話をしなければ勝手に上手くいく事なんてないのだと思っている。

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その事を判断する”その場所”によって、私という人は、自分の思いなのか考えなのかも区別がつかない、という事実。

もっと言うと、思いも考えもそれはそこにあるモノを、アタマのどこで処理したかによってそれがただ分類されてしまう…とか。いや詳細には、その「選択」をする以前に、私自身が私に対する”態度”を無意識に決めていて、それに沿って意思によらずその選択を行ってしまう、ということ。

”無意識”のことなので、実際は”決めている”と言うレベルにも届かない。

自分の自分自身への在り方があって、同時に自分の他者への在り方があって。多分それは、人が人生をかけてでも自分を開いていく課題となっている事だろうと思う。気づかずに終われるならそれはそれで良いこと…。


だけど、気づいてしまうと自分の中の葛藤や、その割合など、頭で考えるようにはならない事なども抱えてとても苦しくなる。頭で整理できる事「以外」が、無意識にあるものでもあるから。

自分の中との対話をしつつ、自分と他者との対話もしつつ。言葉を使ってやり取りしないと、どちらも”思い込み”のままにコトが進む。

遠慮していないようでどこかにそれは現れていて、また謙虚にしているつもりが、十分相手に図々しくいられたりもして。どれも悪気でなんかやっていないのだけど、互いの基準が違うから結果的にはそんな事も普通にやってしまう。


小さなそんな事を何度もくり返し、押したり引いたりしながら長い時間の経緯を観れば「お互い様」という間柄のように思う。

押され続けると何かをきっかけにして押し返す。それは相手から見て自分がされても全く同じこと。押されてただ反発すればただの対立にもなる為、ある程度はそれでも良いと、自分に許すことが原因でもある。

「そうする事」は、大概自分の中に理由を持っているもの。他者との加減の調整をしているようでいて、結局は自分の中の話だという事がよく分かる。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!