自由、時々ルール
今朝(15日)は色々がポツポツ自覚の位置に上がってきたから、その感触があったから。
個々点々がいくらかのカタチ、カタマリになったという感覚を持った。
その中の一つに「自由、時々ルール」とあり、忘れないように一行メモしていた。
私たちはルールに無意識の中でしっかりと縛られているよな…と。無意識だからわざわざ思い、自覚するほどにもなく、その状態にある―――
この日の朝、ふと思ったもので。
無意識という意識されない状態に、なぜ縛られているのだろう?意識していることが自分の自覚している”分かっている”状態ならば、無意識にするほど無自覚ならば、意識されていないじゃないか。。。
「ならば、ほとんどが人の意識は自由だ」
と思った。
自分でも今までの理屈から考えると、”ぶっ飛び!!”と思うけども、朝に湧いたので「…そうだよなぁ」なんて納得もして(笑)
それこそ、理屈、知識に縛られている状態があり、それがゆるい状態が、普段の自然にこなしている状態なんだよなぁ、と思った。
”私”の中にガッツリとルールをねじ込んでいる人はいるので、全てにそれは当てはまらないけども、私はいい加減なので、あまり普段の”私”の中からそれが出る自覚がない。
恐らく出てくるのは、外の世界と意識的に関わる時で、その時少し色が濃くなるという状態と思う。
だから。ルールを無視しているわけじゃない、寧ろ、関わる時には強めに意識に入る方だと思う。だけど日常の中で、そんなにいつもルール下に自分を置く必要はないし、そのルールを適用しなければならない極へ近づく事など、人はあまりないはず―――
それは”自由”と言わないか?
私はこの朝、そう思ったんだよねぇ…。
「自由、時々ルール」だよな。
(メモより)
あとで読んでも、”そうだよなぁ”という感想しかない。
話を広げれば、結局これもアタマの中の世界に縛られた状態、という話で、いつの間にか人はこのアタマの中の小さな世界を適用して、この自分自身を外の大きな世界のあり方へと無意識に操縦してしまう。
この様な仕組みになっている(から)、こうあるもの。そういう理解・処理されるものは確かにあると思っていて、私も今まで多くの事をその向きで考えてきたのだけど。きっと今までの”普通”の意識が反対になったとか、それこそ「外から見ている」目線になっているからかもしれない、今までを打ち消してしまう様な内容。
違う言い方をすれば、今までの”そう思っていた”、そう思うように繫いでいた線が、弱まったか、外目線が強まったか…。「外からでも壊せるものがある」と、今の私自身が普通にそう思っているから。
ここで少し前に書いたメモを思い出した。”同じこと”と私には捉えられた模様…。
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あぁー…ひとつ、ふと思ったのは。
やはり頭の良い人というのは、どんな事でもしっかりと「制度を活用している」ということ。自分の身の周りだけでなくしっかりと活動範囲にまで、逆かな、その枠まで活動を目一杯広げているということ。
皆が平等に使える仕組み・制度で、どこまでしっかりと利用しているか、という所が一般人とはまったく違うのだと思った。それだけしっかりと、通常に見えている所だけではないところまで関心を持っている、ということなんだ…。
夜、いつもと変わったタイムラインになり、流れてくるものをいくつか読んでいた。さすがだな、と思った。
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思っている、そう考えている。
その範囲で自然に自分の言動が決まってしまうから。頭の良い人でなくても、その事を理解していることで、動きの範囲はまったく違う選択ができる。
それは言わば「外枠」というものでもあると思う。もっと直接に自分と関係してくる様になった時、部分的に、都度掘り下げれば良くて。嫌でもそうする事になったりするわけで、自然と接することになる事も多くある。
結局は、ソレに触れていることで、関係するモノコトに詳しくなっていくのは当然のことで、深さがあるほど”動きがあった”証でもある。
そしてこの事から紐づいてきたのは、いつからか今の世の中は、「何かを多く知っていること」がとても良い、という事になっている様な感じで、実際に色んな事を知っている人は多いのだということ。
その多さが、知識の詳細・細かさが、何か世の中に強いるような世界を作っている様な感じがした。
本当によく知っている人がいる事はすごい事だと思うのだけど、「よく知ってるなぁ…」と感じることばかりなのだけど。同時にそれが強制のような雰囲気が出てしまう世界は違うよなぁ、と思う。
人はいつも、後からじゃないと”その時”は分からない。
状態はいつも、”後で”確定される。