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層の入り組む話

私は自慢ですけど自慢じゃないけど、知識からの学びを真剣にやったことはないので※、本当に知らないことだらけ。だから、昨日のような”表現”になる…、後でそれを表す言葉、そういう考えが世の中にあると知る。もっと言えば、古い時代の考え方としてきちんとあった、今でもあまり目立たないけどある。(※世の人を知り、”真剣に学んだ”とは到底言えないレベルという意味)

私の向きはどうしても逆向きで、それに関しては別のエピソードで触れたいと思うけども、とにかく昨日の補足などを書いて行きます。

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結論としては、全て「解釈」なので、ソレをどのように捉え、理解・説明するかだけなので、(そう思う前と後と)それすらも一見”同じ”。

だけど、それでもただ流れている”環境”というとても静かで、最強の影響を放つ所にその考えがあったなら、人は自然とそれの中に染まっただろう…、ということ。

「世界」に関しての捉え方です。


何を隠そう、私自身も大きな世界=世の中・社会というものに、しっかりと影響されている事が見られるから、残念に感じたり違う世界を望んだりしているわけで。そしてそれは、私自身の個人的な思・考=私の世界でありながら、きっとそうある事は、大きな世界の中にある人、他者という「個」にとっても、それがあり方として真っ直ぐでいられただろうに…と思ったことによる。

”真っ直ぐでいる”人は既に存在することは確かだけど、私がそういうものを見てきたせいか、それは学び直すことによって、多くは”矯正”して戻している状態。それはどういう事だ(?)

何を「主」にするかで変わってしまう。それによってその中で生きる人々がその様に出来上がる部分はかなり大きく、否定がまずできない。だから”環境”という所に位置する、ただ「そうだ」という所には、確実に確かなものが必要。


”矯正”などしなくても、個人である事はそれで良いわけで、理由があって揃えてきたものがある世界、がある事もそれで良いのだけども、これはソレとコレという「別であるもの=別の世界」という事を弁えていたら、在り方は自然と変わった。

個人という存在が、この大きな世界の中で、”そのまま”に接続することが出来るなら(そうしている人も多くいる)それはもっと良いだろうと思うけども、それが”何もない”人にとっては、直接に繋げることがまずできない、とても難しいこと。

だからクッションのように、「そこはそこ」という様に分けてある考え方が、”自分”という存在はそれにより守られただろう。

”そうしている人”には、そう出来る理由がある事も事実であって、その中でそれが”ない”と思っている人が世の大半なのだから、現実としてかなり”難しい”ことは確かだと感じた。

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「分ける」という事は、分離・分断など、ソレとコレを隔ててしまうイメージ、意味があるのは事実として、だけどまたそれが”分かれたもの”として確かに存在することを”認めた”ならば、それはかえって「自分という存在・在り方」へも、そうする事を許せるのではないかと思った。

もっと言うと、昨日の一部で触れた、「世の中は情報を替えずに済んだ分、個人に歪みが…」というこの、個人の”それで良い”という部分がしっかりと安心して残せる、それが許されるその環境=”世の中の情報”があったならば、個人はそこに”そのまま”接続することが可能だった。意図的な形でわざわざ世に現わすことなく。

情報に人の「個」を合わせていってしまう。これは表層を技術的に合わせて行くことの話でなく、自分の内側をそこに合わせていくようなケースによっての”不具合”が多く見られるように感じたものだから。そしてまた、たとえ表面的な部分のソレであったとしても、その皮が厚くなる程に、内側の本来の自分は閉じ込められ、結局は息苦しくなってしまう。


世の中の情報側、世間という大きな世界「社会」が、あまりにも作られ過ぎたものばかりになると、結局そのしわ寄せを受けるのもまた、人であること。しかもそれを作った者がそれを受けるわけでなく、受け取る状態にあるものが吸収してしまう様な構図が、少し嫌と感じた。

「考え」は、何らかのきっかけにより、その時に気づいた事であって、その様なことはこれ以外にもいつもあった事だろう、という事も承知しながら、だけど、大きな世界の中のほんの一部としての自分、「個」という存在だとしても、その存在が大きな世界の中で”ある”ことに、あまりにも詰まってしまう様なことが多く起きてしまうのは、それは通常ではない事と思う。

目立たない所で細く流れ続けているそれを、ここから少し太い線で引いてみたいと思った。


途中で書いたように、私自身が一旦は、今ある世の中を「そうだ」というものとして、自分の中に暗に流していた事に気づいた。自分の今までがまた壊される時でもある。

この在り方(考え方)自体は、全くの”初体験”ではなく、「自分の世界」としては持っていた。

なぜ何度も「自分の世界」と重ねて書くかというと、昨日も触れたように、”私は変わり者”という自覚があるので、そう思う・考えることと、外の世界のことは「別」として見ているため、この自分の世界のあり方を「こうだ」という形で押しだす事を考える発想は全くなかった。

その中で、世界を分けて見ている考えがある事を、単純に分かりやすい説明がされているのを目にして、そしてそこから私のそれも、強ちデタラメでもなさそうだ…と、自分が思えたことで外に顕れる。

自分の一部が壊れながら、また別では強化されながら―――、個という自分が世界と”対等に”存在しているのだと感じる。

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(最後は余談)

表現は通常、「表」から読んでいくもので、だけどこの話の一部、個と社会というそれぞれの世界の”関係性”について触れている部分では、その内容の読み取りは「逆」の関係を表現しているので、捻じれた分かりにくい部分が出ていると思う。

・文字を使った文章を読む・解釈することは、この表面から見る行い
・”関係性”部分は文字の世界ではなく、「その間柄」を現しているもので、それが主=表としているため、それを表す文章は「裏」に回る

この空間の違いがある為、文字表現の世界から少し奥まった所の説明をする時は、人が無意識にその動作をしている事が勝手に外れない為、通常は「表から」の解釈、読み進めとなるため難しいことになる。

内容が難しいのではなく、この表裏による捻じれが読むことを難しくする事もある。

更に、その”関係性”の具体的な表現に入ると、個を表すための全体、全体を表すための個を、それぞれ「主」として表現することが必要な為、入り組んだ話になりここでは触れませんでした。

層・空間の異なるものを、この言語を使って話すことが難しいのは、こういう所にあると思う。

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☆うみのみか☆
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