![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/151074454/rectangle_large_type_2_7eb41f3413d08a956a811fce4c07d434.png?width=1200)
ここにいるのは何人かな
『やっと靴下履く動作が出来るようになってさぁ…ここまで10日かかったね、これは凄くうれしかった(*^^*)』
身体を動かし、今まできた自然にできていた姿勢が再びできるようになった喜びを、本当に嬉しくて主人に話していた。
「・・・、それ、続けた方が良いよ。で、オレが思うに‥3週間くらい、本当に”治った”と思えるのって、3か月くらいかな…って思うから」
この”ドット”は、主人が自分の中へ入って情報を拾っていた所。時間を要しているのでなく、目の動きが、十分に内側を拾いに行っていた。
『そうだよね、それはそう思う。これを続けるから動かさなかった所を動かすようになって、可動域が広がるんだよね…』
この主人の内側に入った目を見ながら、”3週間くらい”という事には同時に同意していた。その時の主人のそこから感じ取っているものの感覚と私の”恐らく…”と思っていたそれと一致した。…、”3か月は長いかな”という風にも思った。
奥の方の点で残る小さな痛み。それは確かに抱えているから気がそこに残っていると思っていた。そしてストレッチなどは自分の習慣にしっかりと落とし込んだ方が良いという事も全く同様の考えだったのは、同じような歳をして、若い頃とは違うことは自らの動きから感じることもあるから。
自然とその範囲は小さなものになっている事を、”外から”も確認した。
(メモから)
あー、なるほど
洗濯物を干しながら、15日のnoteのことが思い出されていた。同意でなくどちらかと言えば”反対側”の思いで。
⦅そうかな…今は”私”の意思の方が強くある、持てているように感じてるけど・・・あ。⦆
この時は奥に入って行くことなく忘れていた。そしてまた後にnoteを読み返してポンと戻ってきた、あー、なるほどと。
「反発抵抗するほどに、それによってキツさが増すから…」ここに反応した。だから結局、その状態は”私”を引っ込めているんだよね、その時は。対立させない、観察モードに入るとは、”わたくし”要素を極力減らしている。
その時に”私”に問うても、”私”から出る言葉は弱いものになるだろうと思った。
そして今日はその反り合う状態がないスムーズな状態において考えている(湧いてきている)から、それは”私”が多く滲んで来ている、…こういう事かと思った。
”私”が現れるシチュエーションがあり、影をひそめる状態があり。その場面・状態によって”私”という存在も濃淡して現れる。
・・・
今までのことも多く括れるのだけど。
この時はそう思ったけど今はこう思うとか、こういう事って生きているうちにくり返すわけだけども。そしてこれはその時点までの情報から”そう思った(考えた)”のであって、また加わり続ける情報によって内容はどんどん更新されるから、変わることも当然としているのだけども。
それが今回は、”私”というそのもの自体に目が(意識が)行っていた。この自分の内側で”やり取り”しているモノ同士の、その状態を自分と”自分”以外の何かとのやり取りとして観ている。
さらにこの「自分」の中ですべて観ているのだから、観ることができているのだからすべて「自分」でしかないのだけども、そこに”私”と自覚に収まるものに対しては理解できるものの、自分の中の”理解しがたい、思いもよらないソレ”というものなど、”私”の外にあるそれに対して”どちらか”の感覚から分離して観ている状態がある。
内側に入らなければ、それは通常”私”という存在としてだけで活動するわけだけども、自分の内側に入るという行いは、この自分によって把握されていないモノコトも拾うことになり、時には”自分の声・存在とは思えない”という意識になるのも不思議ではない。
出てきている情報、把握できる”私”側に寄越される情報は、この頭の中から起きていることで、ただその膨大な記録の全てを”私”というものは全部憶えているわけじゃないから、「知らない」「忘れた」、または「新たに繋がれた」ものを見た時に、自分が一番驚いたりする。だって”記憶外”だもの。
脳は、記憶したものを再生して便利に過ごせるようにしてくれているけども、その再生だけが全てでは全くないのは当然。逆に憶えている記憶さえ怪しい事などたくさんある。脳は微妙に以前とは、過去の記憶とは違う配線で情報を寄越すことも平気でやる事。脳はいつも賢くておバカちゃん。
それがあるから、たまに自らを疑わなければならないし、この時そう思ったけど、今は…という前とは違う結びをしても不自然ではない当然のこと。
だから”私”というものの抱える情報が変わってしまう事だってある。崩してしまって問題のない古い”私”ならば、大いに崩れてしまって良い、危惧すべきは、変わらない”私”がある、と、その情報の中に在ることだと思っている。
コンピュータは、人の動作を非常によく現わしていると思っている。情報の記録、アップデート、最適化。そのような動作があるから当たり前にサクサク動いてくれるんだよね。
・・・ ・・・ ・・・
全部「自分」なんだけど、この内側で”会話”ができてしまうから。まるで他者がそこに居るかのような感覚が現れるのも自然なことでもある。
でも、外部の他者が、例えばこの私の内側のあれこれを見た(読んだ)時、ある人の目にはここにはすべてこの私しか映っていないはず。だってこの私一人の中のできごとを書いているに過ぎないのは真実だから。
そこにどれだけの登場人物がいようとも、本当にそれは関係なく「ただこの私だけが全て」の状態だという事。
この流れで書く「私だけが全て」の意味は、この言葉を直に取り上げて中心に説明される時より、全く嫌味がないと思った。同じ一文が使われ方によってまったく印象を変えるというのは、本当に言葉は魔法のようだと感じざるを得ない…。
(出力中の読み方の印象なので、改めて読む”入力”時では、また違うことを感じる事もあると思うが…笑)
いいなと思ったら応援しよう!
![☆うみのみか☆](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/168686528/profile_87cbf1c4a03357619163a80a155c57dc.jpg?width=600&crop=1:1,smart)