進むための逃げ
「分かっていない」
その状態でアレコレ考えている事はまた、幸せな時間を過ごしているとも言えると思う。
勿論、「答え」を探している時のそれは、苦痛にもなるかもしれないけども。
その時、その時を観ていたらそれは”苦痛”という痛みとは全く異なる、ただの”焦り”という状態の現れであったりもして、何も急がずにその中を自由に動き回っている”状態”ならば、とても「幸せな時間」の中に居る、そんな風に思った。
昔、何度も思った事がある。
『頭の良い人はつまんなくなるな…。モノコトを芯から押さえていたら”分かっちゃう”から。それまでの揺れは少なくとも少ないはず…』
分かってしまっている事を”分からない”にするのは難しいだろうと想像する。反射的な反応が少なくなる事も想像ができる。
であるならば、何に関心を寄せて行けばいいのか…?
今度は人のそれに手を貸していく事…、そんな方向なのかな?と勝手に想像した独り言。
私はまだ、自由に妄想できる事も沢山ある(笑)
輪廻転生。
ここから卒業する事がすばらしいと誰が言った?
途中のそれらすら楽しめるならば、もう既にその輪から外れている。
下書きしていた↑↑↑でいう「頭の良い人」とは、”分かってしまった人”の意味。内容を理解できる理屈が分かるという事ではなくて、身体的な感覚を通して”分かってしまっている人”のこと。
過去から時系列で捉える習慣のある私たちは、物事を「昔ー今ー未来」と一本の線で無意識に結ぶ。結ぶことを意識した訳じゃない、そう決めた訳でもない。だけど、そのようにモノ・コトを見る捉える。
「合っている」という事が、シンクロ。
”その場”に、あっている状態。
スケールを変えて視えるね。
身の置き場所、脳内の揺れ。だから「シンクロしてしまう」という事も可能になる。人は現実でなく、抽象化してモノコトを考え捉えることができる進化した動物だから。
結ぶーー結ばない。
どの次元へアクセスするのか、自動だったり手動だったり、引っ張られたり。結ばれればシンクロ、”場”を同じにしているから。その場で”合う”ということ。
見えない系の内容、言葉で表現されているけども、それが手っ取り早かったから。「次元へアクセス」は脳内で行われている状態に言葉を付けただけ。「そういう次元がある?!」と、違うスイッチを入れる必要はなくて、普段私たちが普通にやる事、と私は思っている。
その前提で続けると、最近よく触れる具体的に対して使う抽象的なこと。
”比喩として書く”よりも断然「そのまま」を書いているに過ぎない記事が、外の出来事・事象と合ってしまうという事は今までにも書いているのだけども。
それは、「具体的に見れば」事象が違うことを、私たちは自然と抽象度を上げて解釈をして”同じ”とする事によって”合う”、という風な意味で上記を書いた。
この場合、「そこ」という場所にアクセス=その抽象度まで上げずに、見るままの次元=文字通りで、読めば(解釈すれば)、シンクロは起きない。「”居る場所”が違う」から。
シンクロは「”同じ”を見ている」からシンクロと言えて、全く異なる方位を観察しているものにとって、それは全く”別の次元の話”という事になる。
ここで言う”そのまま見る”という「分かった」状態、”つまらない”とは、そういう意味。”冷めている”から。そういう部分が”醒めた状態”ということ。
人生という道のりは、どれだけ自分の思いを詰め込んだかのストーリーでもある。学び経験した事によって”分かること”が増えるという事は、ストーリーを作り出す前に”結果”に到着できてしまうので詰めどころがなくなる。
だから明らかになった事が多い状態というのは、決して”しあわせ”な事だけではないと想像する、分かると同時に昇華(消化)されてしまうのだから。そしてそこからまた、自分の好奇心が掻き立てられる様な、思う通りにはならない感覚・身体を使いながら、楽しみを探していくのかな…と思った。
自覚上、楽しんで行う”人工シンクロ”はコミュニケーション手段の一つと私は思う。おかしな誘導をするのは論外なので、それはやはり”醒めた”冷静な目で、そのままを観る振り分けが必要になるけども。
「次元の異なるモノとは会話にならない」
というのは、差別的な意味ではなく実際のこと。層の違う会話は成立が難しいから。
そう考えると、”表はフェイク”。
文字で表される言葉は、ただ伝達の道具として使用するだけで、人は意外にも「抽象的なコト(モノ)、表されていないものによって会話をしている」という事になる。
コミュニケーションとは、何でしょうかね。
とても考えさせられます。
・・・ ・・・ ・・・
シンクロに関しては過去にももう一つの”方向”で触れているのだけども。
外から来る”感覚”によって、その様に無意識で話す・動作するというもの。見方によっては「予言・予知」というものになる。何も表れていなかったコトがその”表現”に合った事として”やってくる(起こる)”と感じる出来事。
これは感覚といっても自分の”自覚”を通さないので、どこまでも不思議な話のように捉えられるのだけども、無意識で行われているからこそ逆に信ぴょう性が高まる部分もある…、でないと殆どが表面的な意識された「思い込み」による”予言”になるから。
そもそも、”感じて”いても、それを脳が繋いでいなければ、”触れた”などの反応(自覚)はないのだから、酷くおかしな話という事でもないのだけども。
通常の覚醒時の脳の働く範囲では、”感じられない”ことであっても、でも「何か」は感知できている(かも)という事は、結構な確率であると思っていて。また多くの”間違い”かも知れない事も含めて、一度「配線を繋ぐ」ことをしてみなければ、”自覚”に上がってくれない訳で。
それでは一向に「そんな事はない・あり得ない」その範囲を超えることはない。
間違いのデータも、傾向として”当てはまるソレ”もそれぞれ集まって、その中からしか「括れない事」を観ていくには、「一度繋ぐ」ことなしには成し得ない。
枠の外側へ行って、仮説を立てて検証し始めて。やっと少しずつ何かが視えてくるという事を抜きにしては世界は広がらない。
どんな事にも”好奇心”を持って臨めるというのは、かなり幸せな事なんだと、私は思っている(*^^*)
実際には…。
「途中のそれすら」の”今”の時、”楽しめて”なんかいないはずだね(笑)
もしそれを本当に「楽しめているんだったら」モヤの中という事になる。イヤなものはイヤで、苦しいものは苦しい。それが”本当”の状態だから。
それが沢山”学習”したことによって、自分を進む方へ導く事を知っているから、「これは○○になる流れ・兆し…」と解釈してその中を走っているに過ぎないのだから。
現実だけの世界は本当に酷、現実が自然。
言葉の世界に居る時、キレイなもんだ。
だからニンゲンは、一時的にでも靄の中に逃げたって良い、それは困難をうまく乗り切るために。
心が落ち着くように学習した事の中から選択・実行する事ができるのが人。入手アイテムは使ってナンボ、人生ゲームにおいてもそれは同じことだ。