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そこを現わすと…

時間が経つと、複利のようにどんどん膨らむ”結び”をつかむ。
元のものがしっかりと固定された”記憶”ならば、それを元にして考える事はできる。

イメージとして”パッ”と浮かんだところのタイミングのものは、固まっていないもので、それを元にした様々なモノと”関連”という淡い繋ぎ方でこちらの展開は広がってしまう、と言える。

固まったものを中心に置いた重なりでなく、その一部と淡く重なるという形で横に斜めにどんどん”ズレ”る展開。”転がる”でもいい。

この数日をそんな風に表現できると思った。

・・・ 

・書くことで次々展開が生まれ、それによって元から見ればズレが方々に広がるばかりとなった。同時にそれによって、別展開が生まれているので、視点は増やされている。

・①②③すべてを見たその時を、元に”近づく”と、その一部分が拡大される為、どんどんそのコトの中へ入り込み、”一部分の”掘り下げが自動でなされてしまう為、近づこうとするほどに「元」からは離れてしまう。

・③が存在することにより①という自分の在り方・考えと、全くこの自分に気づかれることない形で姿を変える②のポジションがある(と表現できるか)。

・軸を変えることが出来るというのは、「同じ」に出来た状態がそこにあるという事なので、外に合わせたようでいて、それも実は自分と言える。

・この現実世界に具体的な言葉にしていく事は、説明が散々に多くなる事と言える。映像ならこれが全く要らない(伝わるかどうかは別として)。そして展開が増える分、余計にそこへの到達は難しくなるという、逆転現象を起こす。

・「もうこれでやめときます」と離れた方が普通の状態に戻り、「その状態が」、何食わぬ顔でシレっと出やすい状態をつくり、それらは言葉を変えて現れる。

・・・

上記はlineメモ。

ど真ん中じゃない、それに関連した”周辺”、時間の経過で幾らでもツラツラと出てくる※。

上記の内容でも触れているけども、「ソレ」という対象を追う時、実はそれがターゲットではないという事は非常に多くある。寧ろそれが本質的というだろうと感じている。

だからこの世は逆。

見やすい、分かりやすい”それ”があった時、引き出したいのは「ソレ」。それが正しいかどうかは考えていない。だけど、ここに書く内容だけじゃない他の解釈にもつながる”考え方”と思っている。「つながる」理由は、”※”部分も一緒に説明できるのだけど、「深い所」で捉えているから。


深い所は別の言い方がもちろん可能。表現としては逆の”高い所”でも同じ、重なり方が密とならない、うっすらと結べる淡い紐づけ、重なり、からみえるもの。その層・空間で淡く視えてくるものを掴むと、この表の世界では全く関連のない事象の話が、飛んで入ってきている様になり、”支離滅裂”の印象さえある。その空間に在るものは、そういうしっかりと結ばれない浮遊しているようなもの。

表で言う「具体的なこと」から離れると、つながりの希薄な、繋がっているとは言えないような漂うものの世界。表を動かすとそちらがよく視えてくるという「逆」の現象を見ることになる。これはこの”現象”が発現する意味でなく、隠れたものを仮に”裏”として、表を動かす自分によってその裏を見つける自分が引き出される、ということ。


これが、先日少し触れた、「意識したい事は逆に離す」=「意識しない」という私の表現・在り方であって、”思うことと逆を触る”という事の取り組み(中)の動作でもある。

この考え方自体は珍しくもなく昔からあるもの、言われているもの。そしてこれが全てではなくて、やはり動かす”場”によって、この形が適しているかそのままが良いかは当然異なるもの。この現実世界で物理的にコトを消化する時には、意識をそこに向けそうした方が早いに決まっている(念力を使う方が難しい(笑))。動作した方が良いこと、逆を動かす方が良いこととは、その場面・場によって勝手に変わってしまう。

また、特に最後の二つなどは、そこに縛られている状態から現われたものなので、「そのフォーカスを止めてとめてしまえば、そもそもこの状態は終わる」と簡単に言える。


拘る必要性と止めてしまうという手放しと。
そこから離れたと見せかけて、奥では決して追いかける事をやめていない追跡。

”一旦”離れる形をとるパフォーマンス。仮のパフォーマンスでありながら、その実行をしている事による「浮かびだし」を見るという事。表の言葉でスリムに書くと最後の二つのような表現になっているけども、その表現の裏を抱えた状態で「その表現になる」という表現の”層”。

この”中間”に当たる層は、外からのそれとこの自分側から見るそれと。色々の緩衝部分になっている様にも感じられる。

・・・

何がきっかけか分からないけど、でも理由は想像はできるのだけど、ふと目にした表現の仕方を、自分の中で「裏返す」ように表現を反転させていた数日があった。真剣にやっていない、ちょっとそれの感覚を触ってみたかった。

『ここにあるこの表現、私から見るとそれはどちらかと言えば”ネガティヴ”な様に映っていたものだったけど、それをこの表側から、”言い変えることが可能だ”』とみていた。

その時、それは人の現れだと思ったし、表現は人によって全く変えられるものだと、同じ状況を「みている」状態につくその言葉は、全く同じなんかじゃないと、改めて思っていた。


これは、内容も憶えていない通りすがりのポストだったものを、目にした時の印象からメモしたものだけど、これもここ迄の事に関連したものとして、私の頭に押し出されてきた。

何か、”〇”という対象があって、それを見ている。それについて人は表現する。言葉を使って、話すでも書くでもいい。自分がそれを”現わす”動作をする。

その時そこにつくその言葉は、その個人の中から露わになってくるもの。その人の表現とは=人の”ヒョーゲン”。人の数だけそれがあるという理屈はあるけども、大体の重なり・大きな分類として分かれる(ここではネガ/ポジ)。

外は。
全く自分という存在、別の対象を見ながらきちんとこの内側が現れ出る”表現”。この「内側が外にひっくり返ってそこに現れている」というこの言葉は、直接に理解する事、呑み込むことは、今でも私は「?」と思うけども、こうして順を追っていくと、自然と内側にあるものが、そこに流れ出ている、繋がっているという事を、幾らかでも感覚的に捉えられるんじゃないかと思う。

外側が(は)自分。
言葉の意味から、その理解からでは解釈が難しいこれは、だけどやっぱり
「そうなんだな」という所にやっとリーチした。

つまりこれは、物事の解釈は表からだけでは不可能であり、それを追うことで、内に入ったり表に出たりの、場面によって、今・表裏が逆転している状態を進んでいる、その事も分からないような”自分の状態”を経て、難しかったその「表の解釈」ができる、という事が言えるだろうと思った。


lineメモ以前に書いたメモ帳にあるものからここに書いて行こうと、”私”は予定していたのだけども…。

脳はそれを、違う括りで出力したい様で、今回は挟まずにこれで終わります(*^^*)

追)メモ帳は、”向き”の話が半分くらいで、頭の中でそれが強まっている(材料を集め出している)のを感じているので、脳は、そちらのカテゴリで書こうとしているのかな、と、この意思のある私は感じている。

”強まっている”と表現する部分の事が、「フォーカス」という機能に並ぶわけだね。こうして、その状態が連ねられる”ツラツラ書き”を、「それをこう言います」と、短縮したのが表で使われる単語や名前などで。表ではその様な言葉たちによって、その意味が伝わるようになっている。

恐らく人は、弱く連ねられるより、単語(やそれにつく名前)でソレというものが解釈でき、次の単語でソレとそれというものを「繋ぎ合わせた」荒いものの方が”分かる”のだと思う。意味だけで繋いで解釈をしていく事に頭が慣れている、とも言える。頭の中で繋がらない”溝”にあたる部分も連ねられているような表現は、かえって難しいのだと思う。

意味は伝わる。だから言葉の意味は私たちは解釈することはできる。そこを実際に歩いてみるかどうかは、自分の意思を元に決めるのが幸せだと思う。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!