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自分の思いはあり方と繋ぐ
「反面教師」―――そんなものは当たり前だと思ってた。
何かを見て、いいなぁと思うも、イヤだなぁと思うも。自分の中から湧く感じ方であって当然の反応(反射)。
そしてそれが当然のように「許されていた」と思った。
これは「時代」と私は結びつけるのだけど。その流れで書いていく。
・・・
昔はかなりしっかりと「差」があった。先生など敬いの対象・存在は確かにあり、それが正しいかったかどうかではなく「そういう存在」として、そこに威厳もあったかもしれない。”怖い・厳しい”という事だけでは全くない。「大人」という人の存在はそういうものだったと思う。
そういう存在があり、それとの関係の中で生きてくるのだけど、「自分の中から湧く」その感じ・思いは、自身の在り方を決める事でもあって、言葉で教わらない大切な”教え”だったと思う。
いつから?どこから、イヤなものその対象自体を変えようとする様になったんだろう。自分の中に湧く思い、そこから”自分”へ繋げるのでなく、対象、その外側をどうこうしようとしだした。
良いと思う/悪いと思う。どちらも当然あって。そしてそれは思うのは自分なのだから「自分が」そうしなければ良いだけの事なのだけど、いつの間にそれが変わってしまったんだね。そうした事から考えると…。
キレイなキチッとした”社会”が求められるのは当然になり、それはイコール「大変窮屈な空間」となるわけで、その様に外に求めれば、この自分自身もその様にしなければならないという風に、自らを締めることになる。
自分の思い―――その在り方。というシンプルなものが、外を通してとても複雑に、そして自らを狭い空間に閉じ込めるということへつながる。
それでは、”手入れ”することが不自然な社会という空間に、散々手入れしてしまっているという事になる。
”イヤだなぁ”と自分の内側で思い、それを自身の在り方へ繋げて終わるだけで、対象自体はソレのままであり続ける。良し悪し判定はせず対象は気がつけば自身の在り方が変化するかもしれないしそうでなくても「自分」を通していける”シアワセ”なことでもある。
他者からの判定を受けるのでなく、社会の中の不調和を感じた時に”他者自身”が分かる。
・・・ ・・・ ・・・
メモのままにまずは書いた。
反面教師という言葉はそもそも、私の生い立ちの中で強い意味を持っている言葉で、そこからこの”私”に繋がっているところが大いにあると思っている。その部分からこのメモが流れて行っている。
私自身が何されたということはないけども、逆に私はやっぱり可愛がってもらっていたけども、祖父母宅での生活の中では酒乱の伯父の深夜の帰宅、隣に眠る祖母にお金を要求する荒げた声など、子どもの私には恐怖でしかなかった。
そして、どこかの時点で「絶対こんな風になりたくない」とものすごく強く思った。
その思いはこの伯父に対してだけじゃなかったと思う。自分の家族の、他所の家族に見えるそれらとは全然違うその環境の一部は、とても嫌だったんだと思う。
それがあり、「そうはならない」と、私を支え続けたかもしれない。
更に我が家の主人も家族の在り方を反面教師にしてきた事は以前に聞いていて、その事からも”当たり前”と思っていた。その時点では相手が”大きい存在”という位置づけにあり、抵抗が難しい子供の、せめてもの反抗心だとも思っている。
今の子供のいる世帯の詳細を私は知らないけれど、現代の世界を観ていて、他者を散々に叩くというある種の異様な光景が浮かんで”時代の違い”と表現した。人の性格は今にできているものじゃないから。
こういう所からも、いつか別記事で触れた、”個の力が弱くなっている”と感じているもので、主語を自分のままにできず、でも不快なそれを解消するために”他者に変わってもらおうとすること”で解決させる動きに見えている。
まずは「自分」で良くて、自分を築いていって問題ないのに、「みんなで・みんなと」ということを早々に叩き込まれ、”同じ”であるという習慣が心地良いかのようにもみえる。もちろんいつの時代にも抜け出す人はいて、そんな所に収まらない人たちもいる。
”当然のように許されていた”というのは、自分が心にそう思うことであり同時に、対象の他者がそうある事。れっきとした力関係がそこにあった事での”学び”でもあると思う。
誰もが平等の並びになど絶対にならない。”階級”という言葉を使っていないだけで、人は自ら自他との間に上下の差を作っているし、それに従うように自らを低い位置に置いている。
でなければ、他者を下げる(変える)ことなど考える必要はない。
自分から見たイヤと感じる他者は、他者自身を取り巻く環境から追い出されなければまず気づくことなどない。相手が変わるのは、自身の内に何かの反応が生じた時のみ。その気づきが将来にやってくるかどうかも不明。
だけど在り方を存続できるならその他者は幸せなことだし(皮肉含む)、自ら変わったのならそれで良いこと。どちらでもよい事。
本当に自分の機能を使いながら、”自分自身”は見れなくなってしまったように感じている。それを埋めているのが”他者の存在”になってしまっている。自分の中に湧くものは自分のものであって良くて、それはそう望む自分のための行動に結ぶだけなのだけど…。
どこで変わってしまったのかな…と思っている。
・・・
ずっと長いこと心に思い続けていることがある。
昔の「差」、明らかな差の方がまだよく見える。今の”いっしょ”の考え方の裏側に読み取る完全な排除は、一緒と言いながら全く分断しているその不一致の在り方に疑問を持っているため。
目に見えている事と見えていない事が近かった。今は表のソフトさの裏との差がとても大きいから余計に”怖い”世界なのだろうと思う。
良い言葉はどこかから沢山引っ張って来れて、自分が発信できるようになった。言動の「言」だけで錯覚を起こすことができる世界で過ごすことが多くなり、”本当”と思うようになった。
現実世界との差が大きくなれば、どんどん人はそこで生きる事は苦しくなるだろうよね。
(ある側面の話。”書いた”ことの裏側を”主”として読み取ることも可能なため、補足できることは沢山あるけども、補足せずこれで終わり)
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