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現実化させるには?

おもしろいですよ、ホントに。ちょっと興味が湧いて”知りたい!”って前のめりな姿勢になって調べようとすると、途端に見つからなくなるのです。

とても滑稽で、そして自分で気づくのです、

「あ、行き過ぎたか(*^^*)」

と。

安心してここで待っていればいい。もっと言うなら”安心”も何も、いつもただ、ここに居ればいいのです。

でないと、静かな音がある事に私たちは気付けないのです。

(うみのみか語録)

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メモを元に繫げていくので少し長いです。

悩む(迷う)人の特徴は、”やらない”から。思考というアタマの中をグルグルする。(やれば何某かの”結果”は出るはずの意)

なぜ行動・実行しないといけないのか?と考えた事はありますか?もちろん、魔法の世界じゃないので、じっとしているだけは、○○はやって来ないというごく自然な考え方があります。


なぜ、”現実化”するかと言えば、『既にイメージできる状態まで、行動が伴っている』から。

言い換えて、密度(←みつどじゃない、みつ・ど)が詰まっているから浮かぶし、映像に変わる。だから「未体験」ほど抽象的になるのが当然。(その”創造”をする場合はこちら)


それをイメージした時に、違和感(ズレ)がなければ”可能性”としては「ある」状態で、ほど遠ければイメージの時点で自分の中に正しい否定とも言える”違和”を感じるもの。


全く違う角度から。(メモのまま書いているので解釈難な所も)

顕在意識と潜在意識の流れ(繋がり)について何度か書いているけども。潜在にあるものが顕れてくるでも、顕在から入れたから潜在で混ざって再び上がった、でも考え方はどちらでも良い、知識の話をしてる訳じゃないから。


ただ、その流れがある中で、視えない潜在から上がったものを、顕在で知るこれっぽっちの”知”で考えようとしているのがニンゲンで。

潜在意識も「自分」なのだからそれも含める事をすればいいのだけど、決まった”カタチ”でしか捉えられないのがニンゲンで、このカタチが人それぞれの知性と言おうか。

カタチなんていくら考えてもないよ。向こう(潜在)のカタチを知っていたならばそれは、「顕在になりつつあるもの」となるからね。


どこまで行っても、そしてだから、その潜れないカタチ・あり様に任せてしまいましょう、共に在りましょう、というのが、○○にお任せ、全託、全て受け入れるという表現になるのだけど…。

でまたここで、この”言葉たち”を表の意識でやろうとするから、表面の中での話・世界になっていつまでも潜ったモノを、意識側から読み取れない。「やろう」と強い意識を働かせてしまうと、それは”視えない世界”ではなく、”この世の世界”となる。


また別の日には。

類友、波長はもう本当としか言いようがなくて。

波長を合わせる、振動数を合わせる(合わせていく)という事も、言葉の理解(←私はよく解っていなかった)からイメージで落ちていった。

私は典型的にイメージから落としている。(私の場合)言葉を自分の記憶を辿って理解しても、薄っぺらくてすぐに忘れてしまうのだけど、イメージがしっかりできるものに出来たなら、それはほぼ肚落ちと同じになる。


言葉だけでは私の中で膨らまず、きっと自分の経験が積み重なった時にその言葉は、しっかりとイメージ(映像)に出来るものに変わっている。


というメモの共通は、”みつ・ど”が上がって細かな点がたくさん集まって「映像化」している、と捉えられます。粒の大きい荒い波動から、細かいものの集まりになればなる程、「イメージはリアル」になるはずです。

「イメージ(想像)できるものは、実現できる」(バケタン光る)

別のノートにはそう記しています。

言葉としては耳タコフレーズだけども、書き留めたその時に私にとってそれは、かなり強烈な「イメージ」であったと思います。

「みつ・ど」が上がっていない状態でのイメージではそれはそこまで「行動が伴っていない」ので、同じイメージでも中身は空という事になる。


このズレがなくなった時、この世での「現実化」は現象として現れてくる。「重くなった=行動が伴った」と考えています。


オマケ的に。

行動はそれ(願望・望み)を得るための「直接的行動」がまずある。この世界で通常はその様に考えるのが”正面の考え方”。これをMAX状態で、鍛錬の極限まで持って行くのがアスリート達で、その強い思い、”執着”を活かし切るステージはあると思います。

そこを通過して、執着せずとも「流れ」を利用して力まずに望みを叶えていく、という事は根本的に目指すモノの「具体と抽象の違い」があるので、叶え方が異なる。


それが「ステージの違い」というもので、優劣でもないし自分が何を望んでいるか、の「状態」の話だと思います。

行動の割合が大きければ、この世への関わりが強いとも言えるし、ニンゲンらしいとも思う。

そして、本質から生きていく状態になったとしても、この世に肉体がある以上、行動する事で達成する、という部分はなくなる事はないという事。ただ、あまり「こちら側に力を入れずとも達成できる事は多くなる」という事は言えると思います。

それを言い換えると、現実世界への関わり方がニンゲンらしくない、とも言えるのかもしれない。

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☆うみのみか☆
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