脳の造りを感じた日
同じ事だろ?
知っている所を受け容れる/知らない所も受け容れる。
受容をどこまで広げていくか。
判りっこない全てを丸呑みするには、目の前を一つずつ、ゆっくりと、消化していけばいいんだから。
なくならない。
遠くに追いやっただけ。
忘れた頃にまた来るのならば、それをまた愛せよ。
その時にしか光が当たらない。
消すなよ。ムダな力を使うなよ。
アナタは全部知っているから。
一つ、ひとつ、少しずつ。出してあげるから。
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いつも変わらぬものを探して。
だからあなた達を愛し、必要とした。
いつもあなたという存在のままでそこに居てくれる。
あなたは今と違う、いつも変わり続ける。
揺るがぬ不動として、そうあり続けること。
それが私にとって必要。
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大いに迷え 混乱せよ
そしてよく観よ
心を連れない私が どのように動いているのか よく観よ
いつもみなと共にあるのだ。
ソコに隠れたものがいるのだ
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〈タイトルに直接関係するのはココから〉
心は暗くない、でも明るさはない。
そして気づく。”感情が鈍いだけで、頭はしっかりと働いている”。
普段の「私」にそういう状態がないから、ビックリもする。こういう”脳の働き方”をしている人も沢山いるんだろうな…と気づく。これが「当たり前」と。
やっぱりラッキーだ。
感情が鈍くなっている今、ここからの信号が働かないメリットがある。私が普段、あまり観れない所だ。
移ろう心からの信号でなく、そこでの評価を跳ばす事が出来る。これはラッキーだ。(一長一短あるけども)今はここを透過できる。
全体にいつもジンワリと、融け込んで働いていたものがお休みすると、脳内は働いてはいるものの、何となく”物質的”な働きになる。冷たくも、シャープでもある…感覚的表現になるけども。
という事は、感情(情緒、心、気持ち…)などは「あたたかい」という感覚を持たせていた、という事になる。
実際の触覚でそう捉えているのではなく、「感情」を通して、「あたたかい」という信号(?)が流れている、と言えそう。全て私の感覚に言葉を付ける事しか出来ないけれど。
頭の”ボ~ン”とした感じは昨日と似ているけども、そして10年くらい前の「燃え尽き」の感じと似ている、とも表現が出来るのだけども、頭の中の「感じ方」は明らかに違うと判るのは、「働き方」が全く違うから。
あの時は何冊本を読んでも、何度も同じ所を繰り返しても、「理解・記憶する事が出来なかった」という事を憶えている。(集中力がない状態とも言えるかもしれない)
今は読みたい記事を集中してのめり込んで読み、書き留めて、と理解・把握している。(集中力はあると言える)
神経の乱れ(?)、今ちょっとそこに血が流れない。「心」が静かになっているから、ただの”ハタラキ”だけが見えるようでおもしろい。
おもしろいついでに、今日の私の状態(昨日の事)を主人に話していたら、主人の経験話に。
「昔、奴らとスノボ行った帰り、『スノボ、行った気がしねぇ…』って言ってたんだよ。」
と言われて、私の状態から想像して答えたのは、
「もう、アタマが切り替わっちゃったんだね、きっと(*^^*)」
なんて言ってみた。
”普段は観れない所”。
あまり「感情(心)」が動かない、通常が思考的な人ならば、この今私が経験している”状態”は当たり前なんだろうと推測が出来た。私にとっては異質でしかないのだけども、自分がこうなってみると、”解かる”事が出来て感動した。
で、主人の話で、スノボに行って楽しい時間は心も動きまくって血も大量に流れただろうけど、楽しかった感情は引き、普段の「思考する頭」にもどったんだろうな、と。
そうだった…。
この主人の話が何で出てきたのかって、私が話したことが引き金だったからだ(笑)
「今日さ、ワンの散歩行ってきたんだけど、『なんか行った気がしない』の。でも”記憶”を辿ると、行ってきたんだよね、当たり前だけど(;´・ω・)」
こんな話をしていた。
私は基本的に「エピソード記憶」が主だったので、私にとっては”暗記”のような憶え方は引き出し方がやっぱり静かだった。
こんな事まで実感する事が出来るのは本当に感謝しかない。感動。
ただ、流れが弱いからか今までみたいな、大きく強い感動!みたいなのはないけども、でも感動はした。良い体験だ。
私の性質的に、「ソレ自体と取り巻くもの」を丸ごと記憶するから、今までも、きっかけでズル~っと周辺が引き出してこれた事も理解できた。
脳は働いてくれている。
原因は”更年期”からか、私は断定まで出来ないけども、「自分の今年の居場所」から、この諸々の現れの流れを持っていた、とも途中で気づいた。これもこの”超繁忙月”が終わってからのまとめにすると決めている。