メモ帳note2
もうね。
書かずに寝てしまいたいくらいのアクシデント発生で「腹が立つわ…」状態が中々引かず。
暫く気を逸らす為に頭を全く使わずに済む、全く関係ないことを目に映して…、笑いが出るまで。
「もう…、本当にもう…」と、”何”を言う事もできないから非常に腹が立っている。自分側の処理の話だから言いようがない。泣き言になった方が全然良かったと思う程の立腹―――。
いや?
これ位強く怒りを持った方が、”同じ状態”に持っていけるか?「こんな気分じゃ書けないよ!!」という思いから冒頭を書き出したのだけども、「段々、ふと…」と気が違う方へ一致、”そちら”へ吸い寄せられる様に収まり始める。
収まるというより、そちらに引かれて”こちらが静かに感じる”という事だろう。予定通り、昨日の関連でいきます。
・・・ ・・・ ・・・
こういえるかも)
現物(現実)を見た時に分からなくなる、と。
それは、脳内から出た証拠と同時に、”未知の世界”に入ったという事でもある訳だ。
そうかそうか…、未知の世界はもちろん一方向だけじゃないけど、「現実」という現物世界もまた未知だったか。当たり前ほど見えないというこのカラクリは一体何なんだ?それを経験(体験)という言葉で現していたんだね。外にペタペタ貼っていく”ミラーの欠片”が、内側から張り合わされてまとまっていく…。
現実の複雑さ、難しさはやってみて初めて分かるのはこういう事だね。難しさを感じないのは「やってない」=現実側でない可能性がある。
身体を引き連れた途端に、難しさを実感できるのはそういう事。
外の世界が(脳内と)同じ様に解釈できるというのは、「そこに意識がある」という風に言えないかな?ゲシュタルト崩れてて、色んな言い方ができるけど、ミラーニューロン、共振?自分と同じ状態を即座に見る(見つける)事ができるという様な…。
そこに「私」の意識がある、と表現できる。
「行い」が壊れるというのは、結果・結晶の崩壊だ。換言して「在り方」の消滅でもある。すべてではない、だけど次々に見え出したりする。見ようとして中々見れないその部分を見れる状態になるという事だ…。
そしてこの部分がまた「やってみて(なってみて)」分かることであって、頭の中の想像だけでは全く分からなかった体験部分だ。
そして「あ~、こういう事か…」とやっとわかる。
習慣になった、という身に付いたモノ(形)を、今度は逆へ戻している様な感じ。つまり、「創れる状態」の方にある。
すっごく分かりやすいのは、考えている時は全く”方向”が違うなぁ、ということ。正に”居場所”が違うから。まだそのモードの時にいくら”引き出そう”としても、ちっともそれは見えてこない。欠片すら感じない。
主に「頭の動いている場所が違う」ということ、居場所。
そうか、こうして状態をただ記していたつもりが、そこから少し繋がるものあり。今まで多用してきた”居場所”。脳内においての「自分の居場所」と表現してきたけども、上記と合わせていくと、今までは
”脳内の” ”私”の ”居場所”
という組み合わせで表現を使っていたのが、色々な寄り道をした事によって、この「私」が外れて(ゆるまって)きて、「”私”は移動しているそのモノ自体になってきた」、ということだ。
そしてここに、自然に表されている”私”が消えて、言葉上で「私」というものを使っている、ということだ。引き出そうと思っていたコトでは全然ないけども、ミラーボールの何枚かのパネルを、内側から一枚でまとめる様に張り合わせられた、そんな感じ。
そうか。
今までの塊が壊れて、他と結合しやすい状態が作られるか。
既存の塊が”そのまま”では、いつまでも情報は「外」のものだし、元の塊は壊れていないんだよね―――、価値観 ゲシュタルト
・・・
ここまで様々なメモをまとめることを全く考えずに写して書きながら、また少し「アレと繋がってたか…」と思う部分が所々でてくる。
昨日は、本当に中身の濃い一日で深い所での感心などおもしろいことだらけの一日だった…冒頭の出来事は最後にあったものの、それとは無関係の別次元の話。
昨日の最後に書くとしたものをもう1つ書いて今回は終わります。
同じ場所(シチュエーション)に行ったら思い出す。”矢印のこと”と重ねた。思い出そうとする時に思い出せないのは、矢印の向きがそもそも違う(→へ行こうとする強さ・力をかけている状態)。それを消した状態(無意識)と、その”場”があれば浮かんでくる確率が上がる。”強さ”で押されていないから。
またここから言えるのは、無意識で握っている情報(記憶・記録)は、「状態」によって使えるということ。意識に”こちら”が上げなかった=気にしなかった、だけであって全ての情報が世界にあるということを重ねて思う。その一部を”私”という存在の中に記録している。
⦅塊(習慣)が勝手に壊れていく⦆
この晩、今まで普通にやり通して来たその習慣でさえ、勝手に疑問がついた。それまでずっと当たり前にしてきた事、自分の行いの一部を確実に占めていた毎日の習慣に、勝手にメスが入る。今までも何度も自ら意識を向けて来ているのに。その上で続けていたのに。
無意識に形成された形が、サラサラっと消えていく様に、そこに意味を感じなく(持たなく)なる。自然消滅していく感覚を、そこにみた。
・・・
昨日の記事内で、「マンダラの絵を見て…」と書いた部分の話なのだけども、これは実際に中々引き出せないその理由は、「その状態」をとろうとして意識的にやっている事ではないから。
それがその「場」が目に入る事で、一瞬に「ん。」と思い出す=湧いてくれて、それを「あぁ、思い出した」でまた別の動きに移ってしまっていたのだけども、その動きに入ってしまった状態では”場”から離れてしまっていて、その欠片も頭に浮かばなかった、という状態だった。
それを感じて「力をかける事をやめよう」と思い、掃除に没頭。この、何かの動作中に「あっ、思い出した」というケースもあるのだけども、
どういうのか、その”引っ掛かり方”は多分自分で分かっていて、そのきっかけが「また同じ場所に行く」というもの。
掃除が終わってから再びマンダラの前に立った時、すぐに引き出されて今度はこちらでしっかりキャッチ。「そうだそうだ…、前の晩寝る前に、こんな事が湧いてきたんだった…」という”ベッドに横になった時の事”を思い出す。
それがなぜ、「マンダラの前で思い出すか」というのは、その横になっている行うコト、マンダラの前で行うコト。やること・思うことは別々でも、共通したことから派生しているに過ぎないもので、”深い所”では「同じ」のものだから。
その「同じコト」として意識側では結びついているから、引き出せたと感じている。
そしてメモ内で書いているのは、私達は全く意識に上げていない情報をこの目にしっかり収めているその意識されなかった”多くの情報側”。これの”場”にあること(居ること)で、そこの情報は引き出すことが可能だと思った話。
ただそれにはこちら側の余計な「力」は不要なので、寧ろ邪魔になるので、こちらを抜くことをすれば、静かな、こちらでは意識もされずに結ばれている情報はふわっと浮き上がる、というもの。
表側の、私達の普段使っている自覚の出来る意識は、良くも悪くも「強い」ので、それとのバランス・加減を見ながらやってみると活用は可能です。
(機会があればまたこれは触れます)
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!