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昔の塊を見つける

ふと思った所から書き始めます。内容は何も決めていなかった状態…。(少し散らかりながら、途中途中でポツポツと引っかけているようです)

私たち人は、この自分というひとつを抱えていて、全て把握し、自身を従えていると、無意識には思っている。そうでない事は、何か、ことあるごとに感じているはずなのに、それは見事に意識に上がって来ない。

”言葉は最後”と、私自身言っておきながら、それこそ”無意識”は、こちらの自覚する意識が思っている状態と勝手に連動してくれる訳ではなくて、そこにしっかりと見えない線引きがされているなと、何かの拍子に意識に上がって気づく。

バラバラのものを”繋ぐ”という形だけで維持しているもの。この繋ぎ方の中に、全てが拾われている訳じゃない。意識された繋ぎは、立ち上がった形の範囲のもの。


言葉は最後であるならば、言葉という、この口から出る言葉は、中(内)で既にゴニョゴニョされた結果であって、それを表向きにかなり整えられて出すこと事がほとんど。この内外の”境”を挟んで、見られなかったものが”見られるもの”に変わってしまうから”体裁”は加わる。

何か感じる…。
それはかなり敏感な人の感覚があればキャッチできるかもしれないけれど、殆どは、「よく分からない…けど」というぼんやりとした”感じ”という形で私たちは掴んでいる。

そしてそれを、そのまま外へ現そうとすると、結構体裁は悪く、一番邪魔をするのはこの「自覚側の自分」という存在であって、これが最大の難関と思う(笑)自分の敵はいつも自分、それは本当にそう。最高の強敵。


人は、他者に気を遣うという事はできるのに、自分自身にそれを行うことはしないね、同じ人なのに。こき使うだけ使って、労わることも忘れ放置し、ここぞの場面で頑張れない自分の尻を更に叩く…一体なんてヤツだ(*^^*)

冗談はさておき、敵は負かすのでなく、ジャマされないように配慮する方が賢いように思う。この”自分”がしっかりと話し合う、ということ。他者とのそれより簡単か?難しいか?は、それぞれの感じ方があると思う。どちらかと言えば私は、”難しい”と思うかな…だから何年もかかっているし、事象があれば都度くり返していく事に変わりはない。

何も分からずにやって行くことよりは、分かった事を消化していく事の方が容易と思うけども、生きてるうちに終わりはないね。”終わった”とピリオド打つなら、”自分に収まった”という事だろう…。


で、この、自覚側の意識(思いや考えなど自分が何かを決めている”範囲”として書いている)によって、右・左と捌かれるのはあくまでもその、それ迄の習慣から来る価値観の範囲によって捌いている事になるので、それすら「?」ということが出ないといけないのだけども、それがホントに無意識に合っている・正しいと思っているから癖が悪い。何度もハマる。ハマって気づいて抜け出して…またハマってとくり返して、漸く仕組みが身に沁みてくる、「ここから抜けなければずっと”同じ”だ」と。

ただでさえ手強い”自分”というものを相手にするのに、そこへまた誰か「他者」も組み合わせて”誰某が”という他者から受ける目線も追加して複雑にしたりして。私たちは本当に生きづらく考えるように作られている…のかしらね。

そうやって、ますます「何かを感じる」という所から離れるような渦の中へ自ら入ってしまってその勢いに流されて中々出るのに手こずる…、笛が鳴ったのに授業の流れるプールから中々出られなかった子供の頃を思い出す(笑)

私達の分かる所、目につく所に何かがいきなりボンっと現れることはないよね。それは必ず前の段階からのものがあるからその”結果”があるのだから。そして分かりやすい、目にし易い”分かるもの”に慣れてしまうと、”その前”はないものだからいきなり”怖い”という事に繋がるんだよね。


昔犬ブログをやっていた時のフォロワーさんを覗いた、場所が場所だから。先日、その話を主人にすると、

「可哀想だよね、”怖い”しかないだろうに…。人は”分かる”から用心できるけど、犬は人と違うからいきなり”恐怖”を感じるわけじゃん…」

その様なことを言った。

その起きている事が何か、という事を人は過去の経験などから”分かる”けども、犬は振動を真に受けて直に”恐怖”と対面する。何かを少しでも分かっている・知っているという事は、知恵であり、大きな恐怖から自分を守ることになる。


もし人の誰かが、何か大きな出来事を予知・予測できるのだとしたら、それは「当たる当たらない」みたいなアホな事を言ってないで、その時に備えて自分たちが冷静に動くための情報としてしっかり活かす事だと思う。

くだらない事で喜んでいるから、それをそういうレベルで考えるようなアフォが増える。ふざけるなと言いたい。

そしてその度、そんな事に乗っかってしまう小アフォが出ることの情けなさよ…。流れからつい昔のことを思い出してしまった(笑)


流れるままにツラツラ流して来たら、”昔の感情”と出会いました。着地はまったくこんな事を想像もしていない。

でもスルッと出てきたという事は、しっかりと私の中に塊のまま壊れずに保存されていたという事ですね。


”無意識”に、耳から入っているその言葉は、時を経て自分の口から出てくる。

そう感じた。

昨日、何か主人と話していてその途中に、主人から問われた。

⦅聞いた事あるな…って私の言葉だ…⦆

すぐにそう思った。

以前の主人との会話では、まったく出てこなかった”その言葉”は、今まで私の”会話のカタチ”として投げていた質問の仕方だった。

ここから、今までは大した会話とならずに散々吸収されて行った言葉たちも、恐らく本人が意識することなく”出されている”だろうと感じた。(幼少時の環境を重ねてみた)

主人の会話のカタチとしては、今までと違う、明らかに変わったと感じることの中に、こういう”今までの主人”というスタイルに(これに限らず)、違うスタイルも加わって現れてくるからだと思った。


と言っても、今までの”感じ”自体が、既にあまり確認できなくなっているので、私は主人を”変わった”と思っている訳で(笑)ということは、この説明はこの「私」に返ってきてしまう。

【私の中にある”主人”というスタイルを、壊さなければいけないんだろうな…】

今までと違う。
確かにそうだけど、とにかく今「こう」なのだから。「私」の認識を変えればそこに映る世界は変わるという事だ。

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☆うみのみか☆
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