デキゴトから”自分”が抜ける
あー、そうか。そうだね。
私は定期的にメモ帳にメモした事を元にして、ここへ記事にしていくという作業が「追っつかなくなる」という現象を迎えるのだけども。
そうするとノートは終わった(写した)事を意味する✖印をつけることなく残ったままになる。それを見、軽く内容を読んで感じる―――。
それが、それこそが「点」なんだな、と。
その点をnoteで拡げて書くという事で普段は、ペースが単調な時は良いのだけども、点点がバーーッと比較的速い時があって、そのコマの全てをここに写すことなく”また次”となると、ノートは✖で消されずに溜まっていくことになる。
大分後になってからでも読んで違和感のないものもあるのだけど、ほんの1~2日前の事でも、”現在”の状態から見ると既にもう「違う」という感覚が掴めたりするものもある。
それは今までに自分の中にあった表現でもう一度書くと、「ただそれはその時の事としてあった」、という様に書いていたと思うのだけども。それはまだ「そのコト」という単に”小さなその出来事に”自分が残っているような表現になっているように感じた。
今、それが観えるということは、それから距離があるという事であって、コトから少し離れている目線でその「一部」としてそれが観える場所に居るから、そう思った。
そしこの目線の経緯こそがその今までの、何でもない小さな点「コト」として書いたメモだったり、日常の様々なデキゴトだったりなんだろうと。
誰にでも個別の日常はあり、その中で生きているのだけども、それはどこかに一旦「留める」ことをしなければ、私たちはそこに気を向けることなどあまりない。故に流れて過ぎ去ってしまう。
だけど理屈は同じことで、それを記録という形で一旦そこに留めたメモという”部分”を見ることで、まずはそういう事の連続という何某かの、何でもない事の、”連続”である事は理解ができる。
その全体の中の、所々を搔い摘んだともいえるそれら自体は、後に使えない、使うことがなかった、という結果になるものもあるけども、これが”学習”を繋ぐ一つの部品の様に、しっかりと一部として存在してくれた事によって成り立ちを助けている。
という事が、”気づき”という全体が観えた時(感じた時)に、部分は引き立ってくる。
だがしかし。
そうは「観えて(感じて)」も、この小さな部分・コト自体に必ずしも意味が見出せる訳でもない事は前述のとおり。”意味のあるもの”から意味のある全体が顕れるという事でなく、意味の異なるコトが、次元(空間)を変えて括れる”意味”が漸く浮かびだす、というニュアンス。
その小さな細々、様々な何でもない日々、でき事、日常が。
それらの集まりによって何か大きな学びを助けている。
その「学びの内容」がこちらの意識でキャッチできる時「気づき」として見せられ、驚き、そういう事か…、と感動したりする。
ノートの、消されていない”メモ”を読んで、気づいた事。
・・・
今までにも書いているけども、「やろう」としているのではなくて、だけど自分の目的に合わせたフォーカスを脳になされていて。それによって、それにまつわる、関連する事がきちんと集まってくる訳だけど。
その”背景”による集められた点たちを見て、それが(今)、「脳内でフォーカスしていること」という様に、自分の内側を観ることが可能という事になる、としているのだけども。
脳に”その状態”がある時に、それを見せてくれる訳で、例えば自分は今「これを意識している!」なんて事を私たちはやっていないけども、それを無意識に”やっている”わけで。
でも”無意識”だから、自覚が通常それに気づくことなく色々をしている。
無意識側の事だから、自分で気づかないのだけども、なぜ、その行動・動作をしているのか、どうしてその選択をしたのか、などを一々探ってみれば理由は判ってくるのだけども…。
自分に訊ねても「はて?」という事であれば、ただ単に習慣になっているクセでしかない事も多々あり、そういう本当に深くパターン化してしまった動作は結構あると感じている。
私自身、例えば上記した事で「気づき」を得、何かの目的にきちんと近づいていると、まずはこの”層”で結論しても良いと思うけども、また少し別の層へ広げてみれば、
「そもそもなぜ、私はこのメモを書いているのか。振り返り・気づきを拾い書く…、は良いのだけども、その流れ自体が既に”パターン化されている”」
という事は言えて。
パターン化されることが悪いという意味ではなくて、「そのパターンにした形は今でもそれで良いですか?」という意味であって、自分の行いと現在に持っている、向かいたい方向と合っているものかどうかを確認するために必要であると思っている。
パターンになっているものは、今までの自分の行いの”結果”、塊。
分からずにパターン化されていた”自分”から、自分で理解している動きへ。
そんな事を過去をぼんやり考えながら浮かんできたのは。
昔、仕事上必要でつけていた日誌、自分のための情報として記していた手帳のメモ。そして毎日ではない必要な時に書いた日記。
内容は全く違うし、目的も異なるけども、やっている動作は既に身についていた事、と分かる。
それは当時に、必要なこととして行っていた訳だけども、今に活きる動作として現在でも自然に行われている。そしてそのお蔭で、私は自分の内側を出力する手段として「書く」ことで今の楽しみを手に入れている。