自分への許可
その時々で「やろう」と思う事は変わったりする。
ここで言う「やろう」と言うのは、自分の意思で”そうする”と言うよりも、必要性があって「脳が」その様な選択をする、という意味。
この辺りは「自由意志はある・なし」論になっていると、ふと思いながら、私は正解など分からないので思うままに書くと、、
『自分の居場所によって異なる』
という感想。
この”居場所”は、以前にも記したように「脳内における”自分”というモノの居る(ある)場所の事で、それによって自分のキャラが異なるもの、という事と似ている様に感じることから。
【ただ事を行う→後にそれを観る(視る)→感想】
という順序でしか、(無意識に行った事を)自分が自分を観る事はできないので、後から経験済み又は類似の感覚(感想)を持ち出す、という結果のもの。
「ただ行った」事から時間が経てば”記憶”という情報の中からどんどん「言葉」をつける事は可能で、書きながら浮かんでいたのは、”行った”という時に、”意思によってそれをした”と言う選択より、”自分のフォーカスするもの”によってそちらへ引っ張られた事により、「意思を使わない選択」という感想はできる、と思った。
意思よりRASの有力に働く状態(この関連はまた湧いた時、そのままに書きます)。これは「どの”地点”で観るかにより」変わってしまうものだけども、少なくとも今ここで触れてきた内容については、私が実際に「行った」時点を観たもの。。。
こういう事自体が、予想外の書き始めになってしまった今日のnote(笑)、私の言葉(発信)は結構な割合で、計算されたものではないという事を書いておきます(*^^*)
追)この手の一見解り辛い内容の時は、特にその傾向あり。正誤ではなく、とにかく感じたままの事を連ねてしまうアウトプット。
では、書く予定だったものを。
順序はいつも「自分」が先。”自分”への理解が広く深まるから、他人のソレへの理解が可能になる。
ここは訓練、永遠のプラクティス。
「自分に許可している事しか、他人に許可できない」というのは、こういう意味。
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自分に許す(許可)範囲が狭い程、他人のソレらを許せない。だから、他人への思いやり、心配りの前に、色んな”自分”を自分に対して許可を出していく事が先・本質、自分が優先。
それによって「結果」は、他人の色々を同様に許す(許可)事ができる。外という他者の事も”同様に”見えるようになるから。
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この上記の”・・・”の間の説明を端折って、「結果」の実行のみを行えば良い、と考え説き、流れを作ってしまうのがこの世界、俗世というもの。
「他人の色々を許す・許せる」を先に持ってきてしまうと、必ず自分が苦しくなる、そこまで自分を広げていないから(許容範囲が狭い)。それを自分に許可していないのだから、”自分内”でいっぱいいっぱいになってくる…という仕組み。
「結果」を得るために行う方法は確かに沢山あり、分かり易い。だけど同時に、スイッチだけ入れて実践を行い、その結果に「結果」を得る間接的方法もある。
私が世に伝えたいのは後者。
あまりにも利口になり過ぎている現代の、私の世の中に対し抱き続ける思いを乗せて、今日はここに記す。
人は何だって出来るんだよ、
考える頭があるのだから―――。
だから故に。
これを読むあなたが今、「そう思えない!」と感じるならあなたにとって絶対に正しい事。
今迄も何度も書いてきた事を、少し強めに書きました、あなたへ。
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全てが「縁」なので。
これを目にするもスルーするも「正解」なんです。そして私が今ここでこれをメモから書こうとしたこのタイミングも意味があってやっていて「正解」なんです(*^^*)
だって、これを書いた昨日。私は殆ど「占い」というものの文言をスルーするけども、たまに引っかかる時があって、端的なソレをメモっていた。(私の中で気学は”占い”ではない笑)
【今の決断が将来を決める事に】
ん~~…。
中々かなり、良い事をプッシュしてきてくれました(*^^*)
そんなこんなで、モノコトのタイミングは、”しっかり合ってますよ~”という遠回しな話を、今日は書きました!
補足)表の意識(自覚できる意識側の事)では、そんな事(しっかり合ってますよ~)を思って書いてない(笑)、そんな事を伝えようとした訳じゃないから。
だけど、こうしてツラツラ連ね、引っ張り出されてくるのが無意識側からのものだったりする。そこに何の判定もせずにただ出力していくと、どんどん滑らかに出るようになると思う。
継続は力。