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”ちんちくちもつ”

我が家の紅一点、永遠のパピーことミルクちゃんが言ってました。舌ったらずなのでよく分かんな~いヽ(^。^)ノ なんて言ったのかしら…?

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基本的には、ないんですよ。基本的には。

人が生きる「人生」でやっちゃいけない事なんて基本的にはないものと考えています。「宇宙はYES!」と言うものね、きっと。


これは以前やっていたブログでも書いた事です。今それを書こうと思うのは、きっと必要なタイミングだから。


私は当たり前に「視えない世界・精神の世界」を書きます。私にとっては普通の事だから。それでも、落ち着いて考えると、ホントに不思議だなぁ、と思う出来事は沢山あります。


もう何年も前に、私はお姑さんと大喧嘩をしました。私も気が強いけども、お姑さんも気が強く、「似た者同士」でもありました。

口が立つのでもっと言いたい気持ちと、あまりの立腹で何か月もそれに気を引っ張られました。今のように内でなく、外を中心に見えてる時だったのでね。


思い返せば怒りが湧きあがり、それまで私は「根に持つ人間でもない、さっぱりしているのが自分」と認識していたので、ある意味驚きです。そしてそれは「恨み」へと変化しそうでした。


強い怒りは収まらず、

「バチがあた・・・・のに」

と心の中で言い終わらない内にピシャッと遮られました。

「それは私のやる事じゃない!!」

その語気強めの言葉に、私はハッとして正気に戻りました。「私、恨もうとしたんだ。」自分の行いにもビックリですが、考えてみればその声にビックリです。


どこか外から聞こえた訳じゃなく、私の中から、強くパッと現れた印象です。当たり前だけど、それ以来、自分の氣の持ち方は少し注意をしつつ、同時に「全てYES」じゃなく、ダメな時・事があるのだと理解しました。


自分で気づかずにしている行いでも、よろしくない時は「遮断が入る」という事も何度か経験しました。(大きな音がして自分の「想い」から離されるなど)それらの経験のお蔭で大きく踏み外さずに済んでいるのだと思っています。


自分自身を律し、整える事に注意はしているものの、判断できずにやってしまっている事も中にはあるようです。そんな時、「それはマズいよ」と遮られる事で、「あ、いけなかったんだ…」とやんわり矯正されているような感じです。


その声の正体は?とかあまり考えた事がありません。言えるのは私を助けてくれるモノという認識だけ。

音で遮られた事が「知らせ・導き」とその瞬間に自分が感じたから、「そう」なんです。その時にそう感じず、また「その思いに戻る」事もできたのにしていない訳だから、私の中の何かは、知っていたとも言えます。


ピシャっと言われた言葉も、普段私が思っている「私」じゃない事は確かで、私は自分の気持ちを心で発している所、「その言葉」は重なって入っているわけで。人間はそんな器用な事を同時にはできません。


そういう様々な事からも、「私は助けてもらっているな」と思っているし、視えないモノはいつも見ているとも考えています。

私は子供の頃から神さまを信じました。一度も見た事はなく、それは今でも同じです。ただ信じているから、私の中では存在し、何かがあればそこに結びつける思考もある訳です。


「視えないモノ」は沢山あって、神さまだけじゃない。自分の心だって目に見えないのです。そして、「助けがある」と感じるか否かは、視えないモノを「信じているかどうか」というこれだけの違いです。


「存在」を前提にする。スイッチを入れておくと、誰でも反応に気づいていけるのだと思います。

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みんなパパのそばで寛いでるな~、なんて台所から見ていた。

ちょっとガサガサ、簡単に片づけものを終わらせると、食いしん坊のミルクが横でチョコンと座ってた。何かもらえると思ったのかな(笑)

「ミ、ミーちゃん、ここに居たの~♡」

「アタチは”ちんちくちもつ”デツ🐾」

「ミーちゃん、言えてないけど、まぁいいよね…(*'▽')」





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☆うみのみか☆
応援チップありがとうございます。自然と学べる記事の提供で倍返しいたします!コメント頂ければ内容を盛り込んで記事として出力いたします。 共に学んで参りましょ~(*^^*)