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長距離の学び
「あなたさぁ。疲れてるでしょう?…熱があるよ」
もう20年くらい前。
まだお務めてをしていた時のことで、原因が分からずに急に首が痛くなって動かせなくなったことがあった。
その事を同僚と話していて、通院している整形外科の話を聞いて、私は近くの病院に初めてかかった。そうだと思ったから。
レントゲンを撮り結果を教えてくれる、「どこも悪くないよ…」そう言って首を触りのちに体温を測ってもらって熱があるとわかった。
診察が終わる頃には駐車場もガラガラになっていて、車の中で知人に電話して笑った…”夏風邪だったのかね”と。
この時はこれだけのエピソード。
それ以後のことを憶えてないくらいなのだから、何もなかったとしか言いようがない。何かが出たのは10年後―――正確にはもっと経ってるんじゃないかな。
「…、首も何でもないよ。あなたね、前にもそんなこと言ったよ。薬を出しても良いけど、今のと変わんないよ。リハビリをして行っても構わない。だけど、忙しんだろう…?」
この病院がいつも混んでいるのは、リハビリが繁盛しているから。広めの駐車場はいつもいっぱい。先生は変わらずはっきりとした口調で言ってくれる。私は以前の診察の事など全く忘れていたのだけど、先生に言われてハッとした。”そうだった、そんなことがあったんだっけ…”と。
湿布を出しても良いけど、(使用中の物を見せるために持参した)市販のその薬で構わないし、だから出さない。そう言われて診察のみで病院を出た。この時は完全に首が回らなくなってしまって、動かせなくなってしまった時だった。
ハッとしたものの、だけど何もされない事に少し不満を持っていた。これを解消して欲しかったから、だから混んでる所へわざわざ行ったのだから。そういう思いがあったから、翌日に近所の整体に行くことに決めた。これが私がDRT整体を受けることになったきっかけだった。
施術してもらって殆どの痛みが解消されたと感じた。ガチガチの状態と痛みから解放されたことは明らかで、当時は「病院より整体の方がよっぽど効くわ」と思ったほどだった。
そしてここでは「余計にそういう状態になる」という仕組みを簡単に教えてもらった。この整体へは定期的に通っている。
さらに大昔の若いころ。
歯医者に治療で通っていた時、もう具体的なことは忘れてしまったけども、その先生も「神経」的な話をやんわりと匂わせてくれた。私にとってこの先生が一番のきっかけ、印象として強く残っている。
それぞれの、病院絡みの出来事は、それぞれ特定のその場所の治療・診断として見てくれるけども。それは当然のことなんだけど、その部分に何の問題もなかった時、”原因はそこじゃない”という事を、言葉にせずに先生たちは”言って”いる。
これを書き出したのは、昨日のnoteで主人の話に少し触れたから。この先生も”分かっているだろう”と、「あれは何だったのか」と言いつつも、大元の事が頭にあってズラしているだろうと、私は思ったものだから。「同じだろう」と思ったので繋いで書き出した。
その本人の自覚しない、それを言うことが直接の”意識”に上がってしまうために、「判っている事を言わない、言えない」ことがある。人にとってのデリケートな部分でもあるから余計に。
ここは、「そういうつもりはない」「そんな事ない」と私が思ったとしても、言い張ったとしても、きちんと身体にその結果として現れる反応がある。そこの部分の話だから、先生は仕組みを知っていて言わなかったりする。
主人が現在も通う病院から、「他へ行ってみたら?」と初めのころに提案したこともあった。診察などの言葉がもっと多く、先生ははっきりとした口調で事実を言うから。ずっと同じ所である必要はないから。
そういう事は面倒くさがるので、そこへは行かない事は分かっていたけども、先生の言葉通りに受け取る主人に、「先生って、他の面からも観てると思うよ」と、今の先生が本当に”分からない”かどうかは、分からないよ、という意味で伝えた。
・・・
ずーーっと後になって、”その時”の具体的な出来事が、自分の中の学びの材料としてあったと分かる。「その時」にはそこまでの事しか自分では分からないのだけど、だから”それ”に対して目を向けてあれこれ思うわけだけど。
それを過ぎてきた”自分”は、経過した分そこまでの距離が出ているので、そのそれぞれだった出来事から「どういう事か」が拾えるようになっている。一度だけでは分からないし気づけない。2度あって「あれ…?」、3度で「やっぱり」という、自分の中の確信に変わる。
学びは、具体的な次元が済んだら終わりでなくて、さらに次元を上げて学び続けることが出来る。その場で上げる括れるのは、そこまでのもの。経過するほどに上げられるものが増えるんじゃないかな。
それは人は生きていれば経験する事ができるから。
焦っても経験することはできないし、きちんと自分に合ったそれが来るというのはそういう事。世の中には「すべては無駄じゃない、無駄な事は一つもない」という言い方があるけども、これも使い方で無駄にもなるし、ならないし、となる。
ただ、体験・経験をして終われば、コトとして流れていくだけ。それが後に未来から引き出して結んで考えることで過去が生きてくる、単なるその場のエピソードが活きてくる。
何でもない事を無駄にするかしないかも自分にかかっている。学びってどうやら、次元を替えてできるらしい…それはその時というこの場だけでなく、未来へも続いているらしい―――
未来の自分に引き出してもらわないと消費して終わるだけなんだよね。
(この話は、エピソードから離れて少し補足したい部分があるので、明日広げます)
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