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外に出ると別もの?
このメモの前に、恐らくポツ・ポツと、続いていると思われる欠片をメモしている。
ただそれは、その時点で湧くままに、書き方もあまりまとまっていない”閉じていない状態”で、尻切れトンボのようだったり、「こういう事かな…?」という結論を出していない状態のもののようだった…、そこへ気が引っかかった。
書きっ放しのようなものは、内容の自覚がハッキリとしていなくて、いやこれに限らず、私はあまり強い自覚を持って書く時と同じくらいに、自覚が弱い状態で書くことが多いため、メモという現物を目にして「あ~、こういう事を書いたか…」と受け止め、そこからの連なりをそこに観ることになって気づいたりする。
そういう流れから考えると、このポツ・ポツとしている言わば、脳が送り出す”独り言”の出力がいくつかあって、その、それ単体ではまったく何にもまだ繋がりの浅いよく分からない状態のものが、他でまたポツと湧いたそれ、また後に湧く(かもしれない)ポツが、ある程度のどこか適当なところで結びつきいくらかの「まとまり」として、この自覚側が「分かった。思いついた!」という感覚を持ったそれに仕上がった様に感じるのかもしれない。
外に現れているそれ、出力された”メモ”からは、内側をその様に観ることができると思った。
・・・
「”出力”している」と言いながら、それはすべて自身へのコマンドである。
いや確かに「出力している」という動作はそこにあり、”私”という者は、その意思を持って行っているのだけども。
そこから思うのは、『ここにある「”私”の意思」なんて、とってもちっぽけで力にもなっていない』ということ。”私”の感覚が弱まる=小さくなると表現できるけども、”私”の持つそこに絡めた意思、”そこへの思い”よりまったくそのコト(というのか)の方が、この”私”に返ってきている(と感じる)からコマンドと表現した…、この感覚が強まる。
・・・
日々書くこのnoteは、自分の中で感じたものを湧くままに書き出していくという事を行っているのだけど、当然外へ向けて「何かのヒントになるように」という思いは、無意識レベルにして自分の中でいつも持ち続けている。
だからなのだけど、自分の中で湧いた、感じたもの(メモ)をそのまま、またはそれを元に綴っていくのだけど、その時は「書く」ということに集中状態があるため、この”私”の思い、その存在とは一時的に切り離された状態になっている、と言葉を付けたい。
書くという行いの中に入ってしまう状態は、それまでにある”私”という存在の、普通な在り方とはやはり変わってしまうから、後になってその出力した結果「内容」を読んで、「おぅ、それは私自身に言ってたのか…(?)」と感じたものだから。
今までにも、この”私”という同じ人物のしている行いだけども、「出力と入力は別(のルート)」という事を書いていて、その状態であるわけだけども、それを自分への”コマンド”という様には思ったことはなかったものだから。
これを書いて、場外から前日の夜、風呂場で感じたもののメモを思い出した。―――こうやって大した自覚に上がっていないものが、書いたもの「外に出たもの」を自分が目にして、”私”に取り込まれている―――
(メモから)
ボディソープの香りがプンとして”あ、いい匂い…”と思った。
⦅、、あっ私か…⦆
私が風呂場の水切りで動いていて、その動作の中でほんの一瞬、”良い香り”を感じた。
良い香り自体はボディソープなんだけど、自分がそれを使い、今動いているこの動作から香りが立ち、「私か」と捉えていた。一瞬の事だけどこの時、意識するまでそれは全く「外」の出来事で、記憶、動き、その物を使った事などが結びついて「あっ、私か…」となっていた。
「外のもの」
情報が結びついていなければ、それは”外のもの”というまったく別個の、私とは関係のないものとしてそこにあった。それはその時確かに、それだけのままで、だけど私の「中」と無意識に繋ぐから「私」と結びついた―――
と、メモはもう少し続いていくのだけど、「外」に出てしまうと、この”私”から切り離されてしまう感覚が自然と生まれてしまう、という感覚は同じだった。
そしてそれを、頭の中には「記憶」というものが情報として残されているから、”自分と関連している”ということで結び付けて”私”に戻すことができている。でなければ、それは良い香りとしてただその物があるとなり、自分の中の記憶で結ぶという事と別な言い方をすると、「意識するまで”外”のもの」という分けたものなのかもしれないと思った。
このメモが何となく書き出していったnoteから、それこそ途中でこの内側のものと合流して繋がっている。
出力したものを自らが目にすることによって、”入力”されて…、と以前はその様に書いたと思うのだけど、それがこの入力の部分が、内容によっては自分自身へコマンドしているように感じた、というものなんだろう。
表現を変えると、ただそこに出力されたものが、コマンドと表現できるくらい、この内側を呼び出す=結び付ける力になるという事だろうと思う。今までこの”私”にあったものが、外に出てしまうと自然と切り離されてしまう…、それが呼び起されるのかもしれない。
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