拘りも大雑把も
また一つ、観測と情報を結ぶ事ができた。
情報の深掘りは追々で、軽く結べたという”両輪”。
あまり一遍に”稼働”はアタマが疲れてしまう(笑)
私が、私の中で結ぶコトは、この世の中の情報的には真新しいものではない。
だけど私が行っている事から”観測できるコト”から観えてきたモノを、既存の”情報”とリンクできれば、どちらか一方から見た時よりも双方にとって精度は高くなるものだから、と勝手に思っている。
そしてそれが、私はとても楽しい(*^^*)
言葉が表すものはその意味だけでなく、本当に厄介なほどに非常に多くの”情報”を巻き込んでいる、と思う。だからそれらを読み取る私達”自身”によってしまうものが殆どになる。
解いていった時、その解放からクリアに見えるものがあるのは良いのだけど、少し時間を置いて改めてそれらを観ると、「とてもとても厄介で面倒くさいこと」と、大雑把な所がある私がみるとその様に感じる。
メモしていた事から一部を書こうとしていたのだけども、上記の流れから続けて行きます。
自分を「大雑把」に意図的に仕向けて行った経緯が私にはあります。過去に何度か書いていることだけど、私は強迫性障害だったと大人になってから認識できた状態が子供の頃にあり、”そういう事”が気になって仕方がない状態が現われた時に、「意地でもやらない」と背を向けてきた経験がある。
子供の当時のその行いや、まだ20代頃(と思う)に感じた「強いクセ」があった事を、その後に何でも調べられる様になったネット社会のお蔭で、自分の状態が「そうだったんだ」という事を自覚した。
そういう経緯があって、細かいことには拘らないという事が私の深い所の、古い意識側ではあった事は分かっている。やりたい探求への拘りとは全く質の異なる、「やりたくないのに気になって仕方がない」という非常に疲れるループはぶった切った。
と表現したけども、子供の頃は勿論意図的ではなく、長い空間を遡って拾った”コト”を観ると、「ぶった切る」ではなく、「他に集中できる状態がある(作る)」という事で、自ずと「切れた」という事を過去にも書いてきている。
脳の同じ場所ばかりを使っていると疲労するように、違う作業によって結果的にソコが休まる様な、”別の行いをする”のと同じ事。私はその様に捉えていた。
で、少し本線で掘り下げていくと、この「厄介で面倒くさい事」という表現がなされる所にあらわれるものが現れていて、古くに残る情報、”データ”は、姿は見えないけれどその様なカタチで経験を露わにしている。
この、”姿が現れること”というのは、本来何も悪い事ではなくて、隠れた隠された、見えなくなってしまったモノが現わされるというだけの事でそれはかつての、”過去の自分”ということ。
過去の忘れてしまったかのようなモノコトというのは、形を変えて現れる、誰にでもその様な事はある。ないという方が逆に怪しい(笑)
その”傾向”があるという事を自分自身が見なければ、それはいつまでも”異物”であって、それを認めた上で次の方向(性)が分かってくるのだと思う。
私が探求したい、他人からはどうでも良いような事でも、私にとって重要ならばその細かい拘りは活かすし、取るに足らない事は本当にどうでも良くて。それに敢えて言葉を付けたら”ぶった切る”で、現在はそういう事に脳は反応したりしない。
昔は、茶箪笥のお皿・カップの感覚が等間隔でないと気になる(いやだ)、カバンのシワの入り方が左右対称でないと気になる、左右均等のようにキレイに畳まないと気持ちが悪い洗濯物…、こんな疲れる事があった若い頃は、子供の時とは違って、自分の意思で止める(やめる)ことができたからそうして自分を変えて行く事ができた。
そしてそれは、子供の頃からずっと大人まで継続されていたのではなくて、部活動やお勤めなど、打ち込むものがあった時はソレがなかった事が分かっていた。それは、他への集中状態が作られていることによって”回避されていた”事は振り返った中で理解できていた。
(20代の頃は、専業主婦の時間が長く、その時はかなり意識して”強いクセ”に背を向ける事があった)
そういう自分の意思ではどうにもできない位の強烈な脳の働きによって、「動作が繰り返される」という事も自分の経験から判っている事で、その程度も人によっては異なるだろうという事も推測は容易。
こういう事からも、「だから自分の意思で出来ます(治せます)」とは安易な事は言えないけども、ヒントになる事は投げたい。家系の筋なのか、若い頃までには神経系の病気に罹った事も過去に何度も触れている。
叔父みたいになるかもしれないと恐れた事もあるし、それこそ一昨日のメモの中にそれを感じる事を拾ったメモがあった。「そうなりたくない、怖い」という無意識に残るものを掴んでもいた。
ただやはり私は、”両面がある”と強く感じていて、そのお蔭で「脳内のこと」に関心を持ったという事に結びついている。
なんで自分がそうなるのか、統合失調症だった叔父のあの状態は、アノ状態と似ている…、色々を少しずつ知っていって、脳内に強い関心を持つようになっている。
”自分を見つめる”という探求に大分時間をかけた後に(*^^*)