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意識を引き出す行為
『愛した男たちをかがやきに替えて・・・』
薬師丸ひろ子さんがきれいな声で歌ってました。
元は、いつだか、来生たかおさんの歌が動画に上がってきて何度か聴いていたのだけど、その後関連から薬師丸さんのそれがオヌヌメに。
”セーラー服と機関銃”自体もよく知らず、当時かなりの話題だったこの歌にも無関心で何とも思っていなかった。
今耳にするこの声の、あまりの透明感、向こう側が見えてきそうな程の透き通る彼女の声に感動しまくり集中して聴いて。
逆に何かがこの内に浸透してくる様にも感じている。
一昨日・昨日のそれぞれの別個の記事(内容)の「背景」、”私の意識側”で括って書きます。
・・・
日常の出来事という事象から、(主人と)互いがそれぞれに「自分のこと」を観察していることがよく分かる。その様になった経緯は主人に直接訊いていない。ただとにかく、動きだけが違うから今までとスタンスが違うという事は明らか。
それは、
「今までこれを担当していたのはY(主人)、今は私、OK。」と表の動作部分は即座に替えることが可能なのは当たり前なんだけども、それに付随している事は、その”即座”にまったく勝手にはついて行かず完全な「置き去り」という事が私の中で鮮明だった。
例えば上記のそれに伴う(繋がっている)モノ、「食洗機の動作は私がやる部分も出てきてそれは対応している、〇(まる、はい終わり)」という風に私はソレだけしか対応しなかった。
その洗剤のストック状態(管理)は、主人がやっていた為、私は洗剤をただ使うだけで買い足しなどを考えることは一切なかった。その事をどちらも話すことなくそこは”放置”され、あると思っていたストックがないという事を経験して、私が「”Yさんがやること”と思っている自分」を観た。”紐づく事”は容易に分かるのに、私はそこを無意識にバッサリ排除している。
日常のことって、こんなに細かくてハッキリ言ってクダラナイ。だけどこの動作(表部分)と言葉で出会う事がなかった置き去り(無意識部分)とが、常にすべての動きの中で共通している事で、置き去りにされたものはこちらが気づかないままそこに置かれ、ずっと表の動作だけをガチャガチャ動かしている事は世の中の事実としてある。
表側の動きと下側(無意識側の意味)の動きと別の層が、一緒に動くことは殆どない、という風に見ていい。それが深い所も同時にゴッソリ動いていく、動かしていく時はかなりハードさを感じるし重いし、とても目まぐるしい動きになるというイメージがある。
そしてこれだけ無限にある「こんな事」を、いちいち全ての繋がりを考えることも限界があるので、こういう「外から起きてくる現象」を通してその時に、ゴッソリ動かしていくという事で、古い無意識側の刷新、更新をしていくのだと思う。
(この話の中で使っている意味の)無意識部分は重い。今までの経験から、深い層を動かす必然がある時、必ず”表側”はガチャガチャと「何だか分からない事」が起きてくると言ってもいい。そして後に落ち着いていき、それを客観して「こういう事だったんだな…」と、”その時”から距離が出て観えてくる内容・意味、整理。
その事も何度か経験することで学習し”経過から”ではなく、”現在”に少し近づき、「”今”こういう事が起きている」と、把握が幾らか出来るようになるのだと思う。
だから「起きているその時」は、ハードな中をその表側の対処はしつつ、「その中」をただ進んで行くという状態を過ごすことになる。その場所で何かをハッキリ決めてしまう必要もなく、一時極端になり、また適当な時に少し戻して程よくなる…という事も大きな流れからなんとなく感じるようになる。
その中に居る時というのは、その中に居たらいい。
すると「その中」というものが視えてくる様になるんじゃないかと、私は思っている。
そしてそもそも、こうして表を動かす時に「紐づいているコト」が見えていて同時に動かす事まで見えている人もいるし、この「動かしている幅」というものが個々によって異なる事、またその内容によって動かせる幅が、同じ人でも異なる事。
そういうものなので、そもそも自分と他者のそれらの動きを初めから把握する事は”不可能”とした方が利口。起きた事その側から掘り下げていく事が今に”合う”ことで効率がいい。
それに対してそれでも気づかず、動かずにいると、表側とその”下側”とのズレが大きくなり、出てくる事象も大きくなるという様に想像する。大きくずれている事は本来不自然なこと。
人が自分で意識をして”やって行こう”としなくても、”状況”に合わせて露わになる現象。そこで「考える事」が必要になってくる。
・・・
ワンと散歩していて。
ニコルには癖があって。必ず私の左側しか歩かない事、そして酷く左にどこまでも寄って行くこと、がある。
ロングリードで動くことが可能ならば、塀などのないお宅の「駐車場の形をきれいになぞるだろう…」というほど、どこまでも左へ行く。
犬の習性があって、そちらに行かせたくなくてこっちが引っ張れば、余計にそちらへ引っ張ってしまうというのがあって、私は引っ張られるのを感じ始めるとこちらは”緩めては引いて”をくり返し、「引き続けない様に」歩く。
まだ観察中だけど、その引きが強い時と、私の手が大して浮かずに済む日とあるのだけど、大分前にふと感じていた。
⦅この子たちに「そんな境」なんてないんだよな、同じ”道路”でしかないだろう。”そっちはダメ”、何がそっちだよ(笑)。そっちもこっちも歩ける場所だよな…⦆
他所のお宅が好きなライトは、ふらふらとあちこち行きたがる。敷地に入らない様に手前で引っ張る私。その動作、「境」を感じながら、私と犬との境を感じていた。
⦅全部私(人)が決めている事。この子たちには関係のない話。だけどこの社会の中で、ルールの中で生きなくちゃいけなくて、どこかで必ず割り切らなければならない。その「あいだ」を感じながらどこで止めるかを考えて決めなくちゃいけないんだよね…⦆
その時、そんな事を思った。
それが、家での躾のことにも繋がっていて、どこまでを許すか(これは別途に書く)という事になっていく。ワン達が排泄をするのに、外ではどこでしても何も言われない、家では場所によっては「ダメ!」と止められる。悩ましいけども「困る」話なのだ。
この”排泄”絡みの、私にとってもっと奥深い話はここでは置いておいて、表面的なことだけで書いていく。
ワン達にとって”良いご飯”をあげたい、という思いと、好き好んで食べない子のソレをどこまで許すか、どうしてそうまでして食べさせなければいけない?など、「…しなければならない」事などは、その縛りを捨てられるものも多い。
ご飯の与え方も再考し、結局は私の考えで従来を基本とした。
慣れから続けている事、ワン達への接し方を一つ一つ気づくたびに考えて決める。完全にワン達本位にする事は当然できなくて、人は、「私は」、必ず自分を捨てることなどできない、という事もしみじみ感じた。
ワン達との関係においてだけでもザッとこれ位は出てくる。そして習慣でなく”都度考える”という事は、やっぱり疲れる。考えるだけでなく実行がセットだから。
だけど、言葉でなく言葉の代わりに態度を私からの”表現”として伝えることを意識しながら、「自分の動き」をワン達に伝える様にすると、ワン達がしっかりとこちらに注目している事も明確だった。
言葉ではない「態度」のことは、ワン達から気づかされた。
・・・ ・・・ ・・・
少しメモを元に。
行動・動作。
習慣という結果が、そこに身に付いているという事を、無意識に確実に目に映す事になるから、「認めざるを得ない」という表現はできる。
もっと言えば、その言葉もいらない”ダイレクト”に掴める…
ダイレクトに掴めるのに、今まで言語に出来なかったという事は、目に映しながらそれは見えないという”盲目”ということか…。
・・
こういう事に今、気づくという事は、その目線がなければ他者のそれもそう見えていなかったという事だし、見えていても感じ方は明らかに違っていて、どこか関係ないという”分離された他人事”だったんだろうと思った。
他者は他者で当然良いのだけど、「中身」は全く違って、何に分離(切り分け)を感じ、何に繋がりを感じて判断しているんだろう?
物理的に何も条件・状態は変わっていないのだから、”意識に上げた事によって色濃くなる”と一先ずはメモしてみる。
(この辺りのメモはあるのだけど、ココへ繋げるための脳内言語なので割愛…)
―――”あの目線”が出なければ、この表現は出てこなかった。この”視え方”がないのに言葉が浮かびようがない。
「環境」が在り方とイコールの感覚で表現している記事の内容が、これで少し分かったように思う。環境は、言葉で全て説明されるものでなく、その無言の空間すべての事だから。
在り方は言葉で説明する事でもなく、その動き存在で十分だから。こんな所か…。(目線がなければ、”その存在達”を見つける事もできない)
【言葉にしっかりスキがあって、動作にスキがない】
という表現になるか。
何度も「○○という感じか…」という言葉を変えての表現になるのは、言葉で表現されないソレを観て(感じて)現すことが難しいから。
それだけ”身に”ついている状態なんだという事。
自分が自分自身を観る状態のことではない事は昨日の記事で少し触れたのだけども、その関連を脳内を探りながら出力が続いていた。
「何が今までの”解釈”と違かったんだろう…」という所が、自分の中で修正したがっている。
「すごい人は凄い人」
そう感じているのは以前と変わらない。
ただその見え方が、私の注目の仕方が以前と違うことで、かえって焦点が当たっている状態、か。注目していた場所が「変化した」と言える。違う表現にすると、意味解釈という言語から抜けて「実態」に注目している感じ。
書いていて散々感じる「…感じ」、「○○か…」。
自分では分からないそれを動きから観える事から、ただ感じ取れるものを引き出してみる、という事で断言ができない。
ことで言うなら正に「言葉にしっかりスキマがあって、動作にはスキがない」であって、言葉(表現)は読む側がイメージを十分に詰め込めるほど”スキ”だらけ、空白だらけなんだけど、動作という動き・実動に注力すると、そこに”しなやか”はあれど、「隙」を感じない詰まり。結果というモノがそこ(身体)に既にしっかり詰まっている、という様に感じて(みえて)いる。
そして私の中ではそれを、環境という無言だけどしっかり示されているそのの”存在”と身体に詰められたそこに示される”存在とを”重ねて視ていた。
言語を使った強さでなく、”無言”の強さ「存在」。
その結果が身体にあるのを感じるから、結果という詰まりを「重さ」としてそこに視るのだろうと思った。
・・・
言葉で書くとどうしても既存の意味が浮かび上がってしまい、書きながら自ら否定する様な抵抗を感じながら文字を並べてみた。
特に「動作にスキがない」は、技術などで磨かれたそれを言っているのでは全くなくて、今まですべての蓄積がその身体に古いままでなく、しっかり更新されてそこに「ある」状態、という意味で使っている。
当然ながらそんなものは目に見えるはずもなく、身体はそんな事を一つも表現していないのだけど、その「ある」が、ただ詰まった感じを現している様に感じた。
それはまるで、何も言わずに静かに強く影響を与える「環境」と同じ様に感じて、ソレと同様の表現をした。
本当に”目線”が加わると、”表現”が増えるのは当然なんだと感じた。
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