流れが強い、から。
空が空いていた。
ボヤッとそこだけ色が違くて…。
ただの残像、なんだけど、そこが空いていた。
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(簡単に書ける所から書いていっちゃいます)
一つは、鼻から管を入れる方法。もう一つは血管から入れる方法。「胃ろう」はやらない、という事で二択。
「両方ともメリット・デメリットがあります。鼻からの方は・・・」
女医さんが説明し始める。
鼻:管を入れる為本人に違和感が出たり、その部分に腫瘍ができやすい。
血管:血管が取れる所が段々見つけにくくなる(的な)。
これらは身体的な”デメリット”。これらの時点では判断できなかった。
鼻:栄養、水分、塩分など、”充分に摂れる”方法。
血管:水分は100%OK、栄養、塩分などは十分でない。慢性的な栄養不足になる。(数値的には、血管からでは3分の1程度の充足だった/1日)
これの意味を理解した上で、
「父の現在は活動的にはどんな状態ですか?」
と尋ねた。
「声をかければ、”うん…”と言ったり、反応はします。ただ”あれがしたい、これはヤダ”、などはありません。そして今日”うん”と言った事が、明日も”そう”という状態は維持されません…」
他にも周辺のお話はあったと思う。
私は話を聞いて、頭にその状態を描き『自分の考えで、”この選択が適す”』という想いで返事をした。
「以前と違って、大分活動という事をしない状態で、(そういう事であれば)点滴(血管栄養)で、お願いします」
と伝えると、
「どちらが”正しい”とかはありませんので…」と。
この言葉の幅。
その時私は、「酷い方の選択」をした私(家族)への、『そちらの選択でも責める必要はない。正しい・間違っている、という事じゃないですよ』という風にやんわりと”肯定”されている…と内心で思っていた。
今、これを書くために内容を思い出していくと、「解釈」というのはきちんと変わるもので。
「あ~、私のこの選択が”正しい”という雰囲気を持っていたんだろうな…」
と。判断するというのは、自分の考えから導いた、”適した(≒正しい)答えという事であって。「正しさ」が分からないからこそ、自分の持つ基準で決めてしまわなければいけない状況がここにあって。それは確かに世の中の他の家族がどういう選択をするか、というのは関係のない事。
”本人の意思の尊重”という事が、「継続しない意思」という事になれば、それは家族に判断が回る。
私がいくら本人にとっての良かれ、を想像したところで、私自身の考えでこの結論を出した事に変わりはなく。”(本人が)どちらに向かって強く流れているのか”、を迷わず決めた。
”言い訳”でもいい。今自分がどういう人だったのか、という事も事象によって、都度見つめている。
ドクターやSWさんは、目の前で話す人に対して、”配慮”をしている、と私は感じている。
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『そこのうちをラストスパートだ』
昨朝、目覚めて書き留めた言葉は、その一言。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!